ひゅう、と一陣の風が吹く。
その風は凍える冬の女神の御手となって、遠坂を見送ったその格好のまま呆然と佇む俺の頬をなぞり、背筋を這い、わき腹を下り、俺の身を氷らせる。
それは錯覚だけれど、錯覚にしては現実味がありすぎた。
――だって、その冬の女神ってのは、今、俺のすぐ後ろに居るんだから。
「――――シロウ」
その女神はその氷の御手を俺の肩に置き、唇を俺の耳に寄せ、ぞっとするような冷たい声で囁いた。
「……な、何、でしょうか、ライダー……さん」
振り向きたくない。振り向きたくないけれど振り向かない訳にはいかない。
俺は蚊の鳴いたような掠れた声を情けなく零しながら、ぎぎぎ、と古びた蝶番を携えた扉が開閉するような音と共に首だけを捻り、そこで――――
「…………っ、――――!」
にたり、なんて擬音が似合いそうな邪悪な笑みを浮かべるライダーさんを見た。
「シロウ、どうしたのですか、そんなに怯えて」
吃驚するほど綺麗で穏やかな声音で語りかけるライダー。
その口元は確かに笑みの形を象っている。
しかし、眼帯に隠されて見えないけれど、彼女の眼は絶対に笑っていないだろう確信が持てた。
今のライダーの笑みは、そういう、見てる方の背筋がぞわぞわっとくるような笑みだった。
「う……わ……う……」
俺は問いに答えられず、情けない言葉を吐きながら思わず後じさ……れない。
首だけがライダーに向いている格好で、身体は正面を向いたままだ――っていうか、一歩でも動けば、その瞬間に俺の聖杯戦争が終わってしまいそうな気がする。
「シロウ、このままでは喋りにくいでしょう」
「うお――――!」
ぐいん、と。襟首を掴まれた、と思った瞬間。
ライダーは俺の俺の身体を片手で軽々と持ち上げて掲げ、そのまま半回転させた。
まるで子猫のように扱われたが、今の状況で不平など洩らせるわけもなく、すとん、と地面に下ろされる。
「……さぁ、シロウ。どういう事か――あのマスターとはどういう関係なのか説明していただけますね?」
穏やかな口調が孕むのは、台詞とは裏腹に絶対の命令形。
それで確信する。ライダーはとても怒っていらっしゃる、と。
何度も咎められながらも、勝手に遠坂と言い合って、勝手に折り合いをつけ、ライダーとセイバーの戦いを邪魔してしまったのだ。いや、元はと言えば勝手に飛び出したライダーも悪いような気もするのだけれど、そんなものは気の迷いだ、と目の前の畏怖すべき邪悪な笑みが一刀両断に切り捨てた。
「あ――――いや、その、ですね…………何と言いましょうか、あの…………」
蛇に睨まれた蛙とはこのことか。
変な丁寧語でしどろもどろに語を濁すことしか出来ない俺を、ライダーは笑んだまま微動だにせずに見つめている――ような雰囲気と、身が凍りそうな怒気を醸し出している。
「あの…………、ライダー……怒ってる……よな?」
「はい、とても。
――――ですから、早く納得のいく説明をお願いします」
ライダーは頷き、続いてにこりと笑みを深めた。
本来なら胸焦がすであろうその流麗な貌も、間近に迫る艶やかな肢体も、今はよく耳にする伝承のとおりのゴルゴンの怪物にしか見えない。
俺は壊れた機械人形のように何度も首を縦に振り、取り合えず俺が通っている学園のことから簡潔に説明しはじめた。
interlude1-2
或る理由のため霊体化できないセイバーは武装をそのままに、衛宮邸から遠坂邸への坂道を歩きながら、傍らで難しい顔をして唸っている自らのマスターである遠坂凛とこれからの戦いについてのささやかな作戦会議――とはお世辞にも言えない口論の最中であった。
「……貴方が怒る理由はわかってるわ。アインツベルンがあんな化け物を二人も用意してきた。
勿論万全の貴方なら敵では無い。けれどその万全を期すためにも他の敵は叩けるうちに叩けって言いたいんでしょ」
叩ける敵、とは無論ライダーと衛宮士郎のことである。
速度や魔力はかなりのものがあり、傷を負っている状態のセイバーであったが、それでもあのまま戦えば宝具を使われない限りセイバーの圧勝であっただろう。
そして彼女の言う化け物二人、そのうちの一人はあの鉛色の巨人・アーチャー。白い少女――凛とセイバーにイリヤスフィール・フォン・アインツベルンと名乗った少女の駆るサーヴァント……だと思っていた、彼女と当のアーチャーの話を聞くまでは。
「……っ、そこまで判っているのなら何故です、リン」
「何故も何も無いわ。さっきも言ったけど、私フェアじゃない戦いは嫌いなのよ」
声を荒げるセイバーに対して、反対にさも当然とさらりと返す凛。
その言葉は確かに彼女の本心であったが、妹の想い人を殺す覚悟の方が出来てなかったのもある。無論声には出さないが。
「……それに見逃すのは今夜だけって言ったでしょ。彼がもしアイツの話を聞いて尚戦うって言うのならいの一番に潰す。これなら文句は無いでしょ――――いいえ、これ以上の文句は認めないから」
だからこの話はここでお終いよ、と凛は強引に話を終わらせた。
セイバーはいかにも不服です、不満です、納得いきません。という顔をして眉を顰めているが、マスターにここまで言われては諦めざるをえないのだろう。「わかりました」と小さく呟いた。
小さく呟いて、せめてもの反抗だと頭の中で抗議の声を上げる。
(……リン、貴方は甘い)
その脳裏にに浮かぶのは、白い少女に仕える二体の巨人。
前回の聖杯戦争時に受肉し、今までアインツベルンが匿っていたサーヴァント・アーチャーと、今回の聖杯戦争でアインツベルンが呼び出したサーヴァント・バーサーカー。
単純なスペックなら万全の彼女に匹敵するだろう力を持つその大英雄の名はヘラクレス。
二つの巨大な死の具現を前に、鞘の加護無しで、はたしてどこまで戦えるだろうか――――
interlude out
「――――と、いうわけなんだけど……」
手短簡潔に説明を終えて、ライダーの顔を窺いながら何時の間にか額に滲み出ていた汗を拭う。
拭って、その汗の冷たさに自分で驚いた。
果たしてこれは外気温の所為か、先ほどから表情を全く変えないライダーの所為か。
無論それを問う勇気なんてこれっぽっちも無いのだけれど。
「ふむ――――」
ライダーは口元に手を当てて小さく呟くと、あの背筋にくる邪悪な笑みを漸くおさめてくれた。
俺がほっと安堵していると、それから何事かを――恐らく遠坂のことだろう――考えるように沈黙する。
俺が説明したことは、アイツとは面識は殆ど無いのだが、たまに顔をあわせると挨拶くらいはする仲で、共通の後輩――桜の面倒を見てくれる面倒見のいいヤツで成績も優秀だ……ってな具合に殆ど褒めているばかりだけれど、俺はアイツが魔術師だったなんてまったく知らなかったってことと、此処とは反対側の住宅地の上の古びた洋館に住んでいて、そしてぶっちゃけるとあまり――出来るなら戦いたくないということも伝えた。
いくらなんでも住んでいるところまでは、と一瞬考えたが、相手も俺の家を知っているんだ、喋りすぎってことは無いと思う。
そんなことを考えているうちに、考えが纏まったのか、ゆっくりとライダーが口を開いた。
「あれほどの魔力を持った魔術師の存在に今まで気が付かなかったとは、シロウは本当に半人前なのですね……と、この問題は今は置いておきましょう。それに未熟とはいえ、あのような召喚ながらパスは繋がり、魔力は好ましい類のものが充分、とはいかないもののしっかりと流れてきています。
シロウも感じるでしょう――この確かなつながりを」
左胸に手をあてて語るライダーは先ほどの様子とはうって変わってどこか嬉しげだ。
パスという聞きなれない言葉どころか、そのライダーの言葉が俺にとって悲しいものなのか、はたまた嬉しいものなのかさえよく判らないが、頬が熱くなっているってことは多分俺にとって何か恥ずかしい話なのだろう。
俺は赤くなり始めた顔を隠すようにそっぽを向いて、取り合えず「う、うん」と曖昧に頷いて先を促した。
「では――――率直に言いますと、不本意ながらここであのマスターのセイバーと戦わずに済んだのは僥倖です。
僅か数合の打ち合いでしたが、白兵において私があのセイバーに勝るのはスピードのみであることはこの身を以って深く理解出来ました。
それに先ほども言いましたとおり、あのマスター――トオサカと言いましたか、彼女の魔力量はずば抜けています。可能ならば、彼女らとの戦いは可能な限り避けるべきでしょう」
居住まいを正し、真剣な、既に馴染みになった無機質な声でライダーは淡々と語る。
俺を責めることもなければ、セイバーに劣る自らを恥じることもない。
今の彼女はただ冷静に、サーヴァントとしての役目を果たしている、そんな感じだった。
「……そうか」
ライダーのそんな声を聴いて顔から熱が引いていく。
だが、いくらライダーが冷静だからって俺まで冷静になれるってわけじゃない。
ライダーの言葉の意味を広く捉えれば、当分の間遠坂とは戦わなくていいことになった、という事になる。
そのことに関しては素直に嬉しい。けれど、あんなに強いライダーが、あのセイバー……俺より年下の女の子には敵わない、という事には酷いショックを受けた。
相手の正体も宝具も判らないのに断言したのだから、嘘や謙遜やそんなものは一切なく。本当に、純粋にライダーはセイバーには勝てないのだ。
「――――――――」
知らず拳をきつく、きつく握り締めた。
セイバーの見えない何か――剣に違いない。でも見えるわけじゃない、そう感じる……って、何よりセイバー何だから剣を使うに決まっている――に切伏せられたライダーの姿を想像して、瞬時にその忌々しい光景を頭から振り払う。
本当に未熟で、馬鹿の一つ覚えみたいに一つの魔術しか碌に使えない俺だけれど、絶対にライダーをそんな風にはさせない。まだ出会ってから一時間ほどしか経っていないけれど、色んなことに驚かされたけれど。ライダーは良いヤツだし、何より、いくらゴルゴンが何だとか言っても、別に兵士でも何でもない普通の女の人なんだ。相手がランサーみたいなヤツだったらどうしようもないかもしれない。けれど、相手がセイバー――”剣”――を使う相手なら、俺にでも何とか出来る……筈だ。
『士郎……いいか、お前は絶対に魔術で創った”モノ”を他人に――特に、他の魔術師に見られてはならな
い。それから創っていいのはガラクタか――コレだけだ』
親父の言葉を思い出す。
つい一時間前まで――親父から魔術を習ってからというもの、俺はその言いつけをずっと守ってきた。
毎晩の鍛錬は常に親父が結界を遺してくれている土蔵で行い、創ったモノは誰にも見つからないように、これまた親父が遺してくれた秘密の収納に保管してある。
今では溢れかえらんばかりに増えたソレは、親父が遺してくれたヤツの模造品……贋物ばかりだけれど、親父が居た頃ずっと鍛えてくれたおかげもあってか、ランサーの槍から俺を護ってくれた。
ならば、きっと、セイバー相手でも少し時間を稼ぐくらいなら出来るのではないか。だから、もしライダーが危うくなったのなら、絶対に助ける。助けてみせる。たとえ相手があんな女の子で、そのマスターが遠坂、だったとしても。
「――――行こう。
郊外の教会……言峰教会。行ったことはないけれど、場所は知ってるから」
そう誓って、いまだ靄のように残滓する嫌な光景を完全に打ち消すためにライダーにそう告げる。
ライダーは急に渋い顔で拳を握り締めた俺に一瞬怪訝そうな素振りを見せたけれど、「はい」と小さく頷いて、続けて俺に確認するように問うてきた。
「シロウ、そのコトミネ教会はここからどれくらいの距離でしょうか?」
「え――、あ……そうだな、新都の――ビルが沢山並んでるオフィス街の外れにあるから、俺の足で歩いて往復したら二時間半くらいはかかるかな」
「――――ふむ、かなり離れた場所にあるのですね」
遠坂と無条件で戦わずに済むのは一応今夜だけだ。
こんな深夜に出歩くのも拙いし、タクシーでも……って、ライダーを乗せるわけにもいかないよなぁ。
上に何か羽織れば格好自体は誤魔化せるかもしれないけれど、異様な形の眼帯が怪し過ぎるし、何より、こんな俺みたいな普通の学生と、超が何個付くか判らない美人のライダーが深夜に二人きりでタクシーで隣町に出かける、ってのは色々拙い。何が拙いのか判ってるからあえて何が拙いかは言わない。それくらい拙い。
「……そうだな、だったら自転車でも――――って…………!?」
ライダーなら直に走った方が早いような気もするが、あんなスピードで走られて俺が付いていける筈が無いし、一般の人に目撃される心配もある。バスも電車も止まってるし、ならばここは学生の足の代表自転車さんで――と思って俺が話し出した、その瞬間。
何を思ったか……というか何故そんなことをするのかまったく意味が判らないのだが、ライダーはどこからともなく短剣を取り出し、その切っ先を己の首筋にあてがい、そして、
「……っ! ちょ、なに―――なにやってんだ…………っ!!」
おもむろに掻き切ったではいか――――!
「あ――――、あぁ――――」
突然のことに何も出来ない。
ただ呆然と、息を呑むことさえも出来ずその光景を見つめる。
……飛び散る、夥しい量の鮮血。
ライダーの白い首筋から吹き出たそれは、切り裂いた傷が明らかに致命にいたるものであることを示していた。
―――なのに、ライダーがこのままでは死ぬというのに、やはり俺は何も出来ない。
俺はただ、呆然とそれを見つめるだけ。
撒き散らされた血液が空中に留まり、ゆっくりと陣を描くのを見つめるだけ。
「……っ!?」
それは血で描かれた、見たことも無い魔法陣だった。
例えようもなく禍々しい、まるで命を持った生物のような図形。
……それは俺には想像も付かないほど強力な魔力を帯びていた。
だから、それがもしかしてライダーの言っていた”宝具”ってうヤツなのかもしれない――――
「え―――――――?」
そんなことをぼんやりと考えていると、突然。
目映い、まるでライダーが現れた時のような閃光が当のライダーを中心にしてあたりを包み込んだ。
それに驚く暇も無い速度で光がひいて行き、何事かと思って思わず瞑った目を開けた、その瞬間。
「―――シロウ、この子がペガサスです。今後とも宜しく―――」
俺の目の前には翼の生えた白馬に跨り、優雅に微笑むライダーが居た。
「よ……よろ、よろしくおねがいします」
もう何が何だか判らないというか理解に苦しむというか、実はまださっきのことを怒っていて、ワザと俺を驚かせる為に何も告げずにペガサスを召喚したんじゃないかって疑わずにはいられないけれど。コレが騎乗兵たるライダーの本来のスタイルなんだ。と、強引に納得して、ライダーに促されるまま白馬のやたら綺麗な身体に跨った。
「それでは行きましょう。出来るだけ抑えますが、それでも振り落とされないようにしっかりと掴まっていて下さい。それと道案内も宜しくお願いします」
ライダーの頼みにこくこくと首肯だけを返して、言われるがままにライダーの身体に手を回し――――呆然自失とした状態だったから、何も考えずにスムーズに出来たのだろう――――掴まって身体を固定するには丁度良いでっぱりを発見して、腕にきつく力を込めた。
「ぁ……」
「? どうかしたのか、ライダー?」
「――――いえ、何でもありません。――――では、せい……っ!」
ライダーが出発に合図にとペガサスの首筋をぱしんとはたいた。
それに合わせてペガサスが大きく嘶き、前足を上げて翼をはためかせる。
――途端。
「ぅおぉぉぉぉぉ…………っ!!!!!」
身体にかかる強烈な衝撃と浮遊感と疾走感とその他もろもろとにかく息が出来ない――――!?
「あぁぁぁぁぁ――――…………っ!!!???」
まず屋敷の屋根が見えた。
続いて藤ねえの家が見えた、学園が見えたビルが見えた、雲が見えた月が見えた。
景色が流れていく。
残像を残して消えていく。
というか息が出来ない、このままじゃ死ぬっていうか道案内どころじゃない―――っ!!!
「シロウ、街を二周しましたが教会らしき建物は一つだけでした。
――――あれです、十二時の方向。あれがコトミネ教会なのですか?」
「――――――――」
ライダーは慣れている――というか身体の作りが違うのか、こんな状態なのに優雅だ。
だがしかし俺は勿論返事など出来るわけが無い。
首肯さえ出来ず、俺は何とか応の意を伝えるためにライダーの身体に回した腕に出来るだけ力を込めた。
「――――っ。……判りました。それでは降ります」
それで伝わったのか。
ライダーは小さく息を吐いた……? 後、そう言って、もう次の瞬間にはペガサスは言峰教会の前――だろう、少し離れたところに教会風の大きな建物がある、広い広場に降り立っていた。
「――――はぁ、はぁ、はぁ…………」
ペガサスに跨り、ライダーにしがみ付いたまま肩で息をする。
早く着いたかどうとかそんなコトさえ考えられない。
ただ、ちびらずに済んで良かった、とか、気絶せずに済んでよかった、とか、死ぬかと思った、とか情けないコトばかり考えながら心の中で安堵した。
「……良い子ですね、助かりました。ありがとう」
ライダーは感謝の言葉を紡ぎながら愛しげにペガサスの鬣を梳いている。
後ろからで見えないけれど、きっとその顔は優しく、可憐に微笑んでいるに違いない。
と、そんなライダーの顔を想像した途端。
ライダーに後ろからしがみ付いている今の状況がとてつもなく恥ずかしくなってきて、ばっ、とライダーの身体に回していた手を振りほどき、慌てて飛び退いた。
「シロウ、どうしたのですか? 酷く疲れて……動揺しているようですが」
「……っ、何でもない。勝手に俺が一人でびびって慌ててるだけだから気にしないでくれ……っ!」
俺が飛び退いてから僅か、ライダーもペガサスから降りる。
そしてライダーが何事か呟くと、ペガサスの姿が霧散するよう散っていき、沢山の光の粒子となってライダーの周囲を舞い、首に残っていた傷に吸い込まれるようにして消えていった。
その傷を覆うように首輪のようなバンドを巻きながら尋ねてくるライダーに手を振って誤魔化す。
「実はちびりそうだった」とか「今更だけど抱きついた格好になってドキドキした」などと言える訳が無い。
「……はぁ」
怪訝そうな表情で生返事をするライダー。
勿論気恥ずかしくてその顔を見れず、俺は「話を聞いてくるからライダーはここで待っててくれ」と早口で告げ――待たせるのは悪いけれど、やっぱり他人に合わせるのは拙い――て、教会へと駆け出した。
高台の上にある豪勢な広場の向こうにある教会。
或る理由で今まで寄り付きもしなかった神の家に、こんな目的と手段で足を運ぶことになるなんて想像さえしなかった、と心の中でひとりごちながら。
interlude1-3
ずるずると音がする。
それが鳴声なのか、粘着質の物体を引きずる音なのか、爛れていく音なのか、判別することは難しい。
ただ判るのは、そこには腐蝕したモノ、腐蝕するモノしかないということ。
四方に張り巡らされた石壁は、長い年月を経てかなり脆くなっており、空気は質量を持って蕩け、蜜のように甘い。
地に這う生き物は熟した果物のそれと同じに溶けており。其処では空気が流れる時間さえ腐っていた。
否、気が遠くなるほどの時間を経て、磨耗しきった其処には腐っているもの以外存在していなかった。
「――――これで漸く七人目か」
その腐敗の中心で、一際巨大な腐蝕が蠢いていた。
ずるずるという音と、ぎちぎちという蟲の鳴声。
そして、腐って腐って腐りきった肉の、肉だったものが発する匂い。
地下室の主たるソイツは生きながらに腐り落ち、腐り落ちながらに生き、地下室の住人たる蟲に集られている。
ずぶずぶ、じゅぶじゅぶと足元から這い上がる蟲は踝から皮膚に吸い付き、軟体生物の吸盤じみた吻で肉壁を貪り食い進み、骨にたどり着くと神経に潜り、尚じゅぶじゅぶと音をたてて這い上がっていく。
……その蟲の数は百や二百ではない。
千か万か、はたまたそれ以上か。
地面を壁を埋め尽くす、その黒い生物の絨毯に集られたのなら、一の人間など分を待たずして崩れ落ち、人間でなくなってしまうだろう。
人間としての外見を纏ったまま、中身だけを、内臓や骨や肉だけを”蟲”にとって代わられ、それこそ文字通り”骨抜き”になって崩れ落ちる。
「足りぬ。足りぬ足りぬ足りぬ。足りぬわ――――」
けれどソレは崩れ落ちることはなかった。
いや、むしろ蟲が己の体内に侵入するたびに、ソイツの骨は肉は内臓は作り上げられていく。
本来、人間ならばこのような状態にあって分を人間のまま持たすことなど出来はしない。
ならば、ソレは蟲に食われているのではなく、夥しい数の蟲たちこそが、ソレに食われるモノだと、ソレは人間ではないと、そういうことであろう。
ぎちぎちと食用蟲たちが蠢く。
その数は万か、億か、はたまたそれ以上か。
貯蔵量にして百年をゆうに超える。だから、蟲を食うソレの命も、それだけを約束されていることになる。
「……まだ先はある。此度はが最後という訳でもない。万全でなければ静観に徹するべきなのだが――」
さて、とソレは考える。
今回の”場”は決して万全と言えるものではない。
前回の戦争から十年という短い年月で開こうとしている孔。
最強たるアインツベルンのマスターが二体のサーヴァントを有し、トオサカの子娘は最優たるセイバーを呼び出した。
条件は良くはない、どころの話ではなく、最悪に近い。
このような不安定極まりない戦いで満ちる杯など完全には程遠い。
たとえ門が開いたとしても、中にあるモノまでは手に届くまい――――
「―――静観すべきだ。……だが、困ったことに持ち駒だけは適しておる」
聖杯を奪い合う場としての条件は最悪も最悪であるが、唯一点―――今まで十を超える歳月の間、手をかけ暇をかけ作り上げた”モノ”の仕上がりは万全であった。
出せば、解放すれば、開放させれば必ず到達するに違いない。
必ずや聖杯にたどり着く、なにしろアレは聖杯の中身そのものといってよいモノだ。
同じモノ同士ならば引き合うのは当然。
骨を肉を神経を魂を聖杯の欠片に侵食された細胞具たるアレは、必ずや我が理想を具象してくれる。
「ワシには次があるが――――。……ふん、あれは次まで保つまい。
元は胎盤として貰い受けたものだが、よもやアレほどのモノになろうとはの――――」
皮肉なものだ、とソレは嘲笑する。
実験として用意したモノは、いまや期待を良い意味で裏切ってほぼ完全と言えるまで適合している。
このまま使い捨てる予定であったが、使えるのならば使うべきだ。
どちらにせよ廃棄する予定であったもの。
戦いに敗れ破壊されようが不能になろうが朽ちようが果てようが、なんにせよ棄てるという結末は既に決まっている。
――――もとより、アレはそういうモノだ。
「と、なると問題は一つ。
……アレをどうやってその気にさせてやるるか、だが――――」
用意した適合作たるアレは、あろうことか戦いを嫌っている。
しかも都合の悪い事に、アレの精神防壁、魔術回路は一級品だ。
洗脳して自由意志を剥奪することは出来そうに無い、アレの奴隷たる魔術師ならば可能だろうが、アレを嫌っているとはいえ仮にも主人。そのようなことを許すはずがない。我が奴隷たる暗殺者ならば気付かれずに近づくことは出来るだろうが、所詮そこまでだ。
「―――一度、唯一度でよい。
僅かな隙間さえ開けば、後は自ら聖杯を求めるのであろうが、さて…………」
その隙間を開ける事が最も困難なのだ。
この世で最も堅固な要塞たるアレは、他者からの強制ではけして崩れはしない。
故にアレを崩すのは内側からでなければならない。
アレ自身の昏い感情こそが、アレを変貌させる鍵となる。
「――――来たか。さて、どうしたものやら」
こつこつと石で出来た階段を下りる足音が、腐敗した闇に響く。
現れた何者かは、そのまま、其処に巣食う蟲たちに怯むそぶりすら見せずソレへと歩み寄り、
”どうしてもマスターは全員殺さなくてはならないのか”
などと、予想通りの問いかけをした。
「――――――――」
無論、そのような事は返答するまでもない。
マスターは全員殺し、サーヴァントは全て奪う。
今回の争いで、それがどんなに困難なことかと判っていても、それがこの魑魅魍魎の温床たる地下室に渦巻く想念であり執念であり――――ソレは気付かないが、妄念だ。
だが、問いかかられたソレは、そんな全てを押し殺して、
「お前がそう言うのであらば仕方あるまいて――――。では、今回も傍観に徹するとしよう」
ソレが言うのと同時、弛緩する空気。
もはや戦いの意思など微塵もない、とソレは偽りの笑みを浮かべたあと。
「しかし、そうなると少しばかり癪だのう。今回の依り代の中では、遠坂の娘が中々によく出来ておる。勝者が出るとすれば、恐らくは彼奴であろうな――――」
……そう、心底残念そうに呟いて、
”―――――――”
再び張り詰めた空気と、僅かな変化――――見逃してしまうほどの小さな負の感情を確かに見つけ、
「ク――――」
腐肉を歪ませ、腐臭を吐き散らし、今も尚腐り落ち続けるソレは、幸甚とばかりにクツクツと笑った。
interlude out
観音開きの扉を押し開ける。
内観は外観から想像したのよりもかなり広く、白亜に染められた荘厳な礼拝堂だった。
席も多数あり、これなら日中に訪れる信仰者もかなり多いという事なのだろう。
そして此処の主――言峰という神父は、これほどの教会を任せられるのだからよほどの人格者と見える。
だが、どこか腑に落ちない。
聖職者たる神父が、何故魔術を使い、聖杯戦争の監督役などというモノを勤めているのか。
教会の強固なる原則として、魔術は排除すべき異端にみなされるのではなかったか。
なんにせよ厄介な人物には違いない。
俺は少し浮ついてた気を頬を叩いて引き締め、こんな時間に迷惑ではないか、という気持ちを引っ込めて、神父たる言峰氏を呼び出すために声を張り上げた。
「すいませーん、言峰さーん、居ませんかー……? 綺礼さーん……?」
声は思いのほかよく響いた。
そして暫しの間待つが、言峰氏からの返答は無い。
やはりこんな時間、もう寝てしまったのか……と危惧しながら、それでもの場合に備えて、聞きたい話を纏めることにした。
サーヴァントや宝具の事はライダーの説明で大体理解できている。俺が聞かなければならないのは、どうして聖杯戦争なんてものが起こったのか、そこへ至る経緯、背景、何故殺し合わなければならないのか、といった聖杯戦争というふざけた催し物についての事だ。
勿論ここまで来たのだから今更それを聞いたところで逃げはしない。ライダーに助けられ、契約し、ランサー……サーヴァントと戦い、打倒し、自らの意思でライダーの力を借りて――ここらでちょっといざこざがあったけれど、結果的にセイバーと戦い、そのマスターの遠坂と対峙した。もう後に引けない事などじゅうじゅう承知している。だからこそ、このまま詳しいことを知らずに戦うのはいけないだろう。
正直、あらゆる望みを叶える聖杯、といわれても未だにピンと来ないし、欲しいとも思わないのだから。
「居ない……か」
考えを纏め、周囲を見渡す。
しかし相変わらず言峰氏からの返答はなく、本人が姿を見せる気配もない。
礼拝堂の中は所謂神聖で厳かな雰囲気に包まれ、夜の静寂を保っている。
「やっぱりこの時間なら私室だよな」
その私室の入り口がどこかわからないから声を掛けたわけだけれど、こうなっては仕方ない。
一見どこにも見当たらないし、いくら堂内が広いといっても、二三分探せば直ぐに見つかるだろう――――、と
「――――礼拝の時間はとうに過ぎている」
かつん、と足音を響かして、果たしてその人物は祭壇の裏からゆらりと現れた。
「だが、信徒たる諸君らが救いを求めるというのならば、それを与えよう――――」
驚く暇さえ与えない。
その人物――言峰神父は、重厚な印象を感じさせる司祭服に身を包み、とても聖職者とは思えない人を射抜き、品定めをするような視線を以って此方に歩いてきた。
「…………っ」
知らず、後じさる。
……別に怖ろしい訳でもない。
……この人物に敵意を感じる訳でもない。
だが、視線や大柄な体格を含め、この言峰という神父から発せられる威圧感が質量を持って俺の肩に圧し掛かってきていた。
「何を構えている、少年…………と、どうやらその様子では教えを乞う為にやって来た訳では無さそうだな。
さて少年よ――――いったいこんな夜分に何用かね」
「――――――――」
俺の目前数メートルのところで神父が立ち止まった。
だが、そんな至近だというのに直ぐに返事を返すことが出来ない。いや、自らの意思でしなかった。……直感的に悟ったのだ。
何用か、などと自分で聞いておきながら、きっとコイツは俺が聖杯戦争に巻き込まれたマスターであると知っていると。
証拠に、現にこの瞬間コイツは身構えを深くした俺を見てくくっと愉快そうに笑っている。
だから、重圧や嫌な雰囲気に負けないように腹に力を入れてから、神父を睨むようにして問いに対して問いで返答した。
「……アンタが言峰綺礼なのか」
呼び捨てに抵抗など感じない。
はっきりいってコイツは気に入らない。生理的に受け付けないというやつだ。
「――――ほう、私を名指しするとは。なるほど、やはり只の参拝客ではなさそうだ。
君が如何なる用件で私を訪ねたかは大体想像がつくが…………、話の前にまず名乗りたまえ。それが礼儀というものだろう」
そんなことも判らないのかね、といった風に肩を竦めて見せる神父。
何故この男の行動にこれほど嫌悪感を感じて腹が立つのか判らないが、とにかく一刻も早く目的を果たして帰りたい。
「――――俺の名前は衛宮……衛宮士郎だ。遠坂に言われて此処に来た。アンタが――――」
早口にそう言って『アンタが聖杯戦争の監督役をしているのに間違いはないか』と尋ねようとしたが、不意に変わった空気に遮られた。
神父が俺の名前を聞いた、その刹那の間、驚きで目を見開いたのだ。
「エミヤ――――衛宮、士郎」
神父はそう静かに呟いた後、目を細め、何か喜ばしいモノに出会ったかのように笑った。
――その笑みが、俺には例えようもなくおぞましいモノに感じられて。
「――――っ」
重圧が悪寒に変わる。
ぞくりと背筋を走った悪寒はそのまま全身を駆け巡り、脳に到達し、警鐘を打ち鳴らす。
コイツには気をつけろと、コイツは信用するなと。
「――――なるほど……そういうことか。よかろう、歓迎しよう七人目のマスターよ」
笑んだその表情を崩さず神父は大仰に手を広げて見せた。
その仕草の一つ一つが何故か癇に障る。
「凛から紹介されて来た、と言ったな――なるほど、不肖の弟子ながらよもやこのような形で恩を返すとはアレも中々可愛いところがある…………と、話が逸れたな。マスターになった者は此処に届けを出すのが決まりになっている――そういう意味ではアレはマスター失格だが――誠意を示して此処に来てくれた君には出来うる限りのもてなしをしよう。
――――さて、それで肝心の用件は何かね」
淡々とした神父の声がそこで一端区切られる。
俺はそこで一つ息を吸い、気を落ち着ける。
落ち着けて、重圧に負けじと神父の目をきっちりと見返した。
「……訊きたい事がある。もちろん聖杯戦争についてのことだ。
俺はラ――自分のサーヴァントの説明で大体のことは判ってる。けれどそもそも聖杯戦争ってのは何なんだ? 何故こんなふざけた殺し合いをしなくちゃならない」
心の中に蟠っていた事をぶちまける。
すると神父は何やら考え込むようにふむ、と一つ間を置いて、だがそれも刹那――何故か酷くがっかりしたような感情を和すかに瞳に滲ませて、俺を見下すように喋りだした。
「――――衛宮士郎よ、厳密に言えば聖杯戦争とは七人のマスターとサーヴァントが聖杯を求め殺し合う争い、ではない。聖杯戦争とは聖杯が自らの意思で七人のマスターを選び出し、サーヴァントを召喚し、誰が一番自らの持ち主にふさわしいかを選ぶ選定のための儀式、聖杯から与えられた試験といった方が正しい」
「全てを決定するのが聖杯であるが故にマスターになるものに拒否権は無い。
さらに霊体である聖杯にはサーヴァントしか触れられない。聖杯戦争でマスター同士が殺し合うのはそのためだ。サーヴァントを以ってしても破りがたいサーヴァントと戦うよりマスターを狙った方が遥かに効率的だからな……だがその殺し合いの報酬は万能の聖杯だ、依存はあるまい」
「――――――――」
仕草が癇に障れば、その台詞も癇に障る。
だが神父の説明は先ほどのもてなす、という言葉とは裏腹に酷く簡略にされたようなもので、且つ簡単に納得できるようなものではなかったが、反論をさせない、許さない威圧感があった。
つまるところは――認めたくないが、この神父の言っていることは全部正しいのだろう。
俺はならばと、今の説明の中で気になった点を尋ねた。
「――――それじゃあ逆はどうなるんだ。あんたの話からするにサーヴァントを失ったマスターにはもう価値がないだろう? それじゃあ――――」
「いや、令呪――のことは知っているな。それがある限りマスターの権利は残る。マスターとはサーヴァントと契約出来る魔術師の事だ。令呪があるうちは幾らでもサーヴァントと契約することが出来る」
「マスターを失ったからといってサーヴァントは直ぐに消えるわけではない。彼らはその体内に貯蓄されていた魔力が尽きるまでは現世に留まることが出来る。そういった”マスターを失ったサーヴァント”がいれば、”サーヴァントを失ったマスター”とて再契約が可能になる――戦線復帰が可能になるということだ。
これはマスターを狙う、殺す理由の最たるものともいえる。下手に生かしておけば新たな生涯になる可能性があるからな」
「さらに令呪を失ったからと言って殺されない、というわけでもない。
確かに令呪が無くなればマスターの責務からは解放される、だが同時にサーヴァント――人智を超えた強大な力を持った英霊を律する切り札を失うことにもなる。そうすればマスターは己がサーヴァントに殺されることになるだろう――――契約を、聖杯を裏切った代償としてな。
……もっとも、強力な魔術を行える令呪を無駄に使う魔術師などが居るとは思えないが。
居たとすればソイツは半人前の未熟どころかただの腑抜け、ということだろう?」
「――――――――」
俺の言葉を遮ってまでした長い説明を終え、神父はふふ、とお前の考えなど見透かしているかのように笑う。
その様は酷く癪だが、生憎今のは念のために訊いただけだ。
ここまで来てライダーとの契約を反故にするなんてことは絶対にしない。
「もしマスターを放棄する、又はサーヴァントがやられた場合は此処、教会に来ればいい。
その場合は聖杯戦争が終わるまでの君の安全は私が保証しよう――――尤も、その表情を見るにどうやらやる気だけはあるようだが、これは一応監督役としての義務なのでね。繰り返される聖杯戦争の監督をする為に派遣された私の使命は聖杯戦争による犠牲を最小限にとどめることなのだ。
故にマスターでなくなった魔術師を保護するのは監督役としては最優先事項なのでな」
「――――繰り返される…………?」
ちょっと待て。
そんな言葉はライダーも言わなかった。初めて聞いた。
繰り返される、ということは、つまりこんな戦いが今まで何度もあったってことなのか……?
「ちょっと待て……それはどういうとだ。聖杯戦争ってのは今に始まったことじゃないのか」
「無論だ。出なければ監督役などというモノが作られると思うか?
この教会は聖遺物を回収する任を帯びた特務局の末端。極東の地に観測された第七百二十六聖杯を調査し、それが正しいモノであるのなら回収し、そうでなかれば否定しろ、という聖杯の査定の任を帯びている」
「な、七百二十六――」
待て。ちょっと待て。待ってくれ。
七百二十六?
なんだそれは。
聖杯ってのはそんなに沢山あるものなか……?
「驚くことではない。少なくとも”聖杯らしきモノ”ならばそれだけの数があった、という事だ」
「そしてその中の一つがこの冬木の町で観測される聖杯であり、聖杯戦争だ。
記録では二百年ほど前が一度目、以後約六十年周期でマスターたちの戦いは繰り返されてきた。
聖杯戦争は今回で五度目。前回――第四回聖杯戦争が十年前であるから今までに最短のサイクルということになるが」
そんなことは瑣末ごとだ。
とでも言うかのように神父は鼻でわらって見せた。
「な――――、正気かお前ら、こんな事を今まで四度も続けてきたのか……!?」
「まったくの同感だ。お前の言うとおり連中はこんな事を何度も繰り返してきたのだよ。
――――そう。
過去、四度に渡って繰り返された聖杯戦争はその悉くが苛烈を極めてきた。
マスターたちは己が私欲に突き動かされ魔術師としての教えを忘れ、ただ無差別に殺しあった」
「無論、君も知っていると思うが――魔術師にとって魔術を一般社会で使用する事は第一の罪悪だ。魔術師は己が正体を人々に知られてはならないのだからな。
だが、過去のマスターたちはソレを破った。
協会は彼らを戒める為に監督役を派遣したが――それが間に合ったのは三回目でな。その時に派遣されたのが私の父という訳だが……」
これで納得がいったかね。と神父。
「――ああ、監督役が必要な理由は判った……けれど今の話からすると、この聖杯戦争ってのいうのはとんでもなく性質が悪いモノじゃないか。もしそんな魔術師たちの手に聖杯が渡ったら大変なことになる。監督役ならそんな奴らに聖杯が渡らないようにするか、罰する――――」
――――べきじゃないのか。
密かな期待を込めて問おうとする。
だが、そんな俺の言葉を神父は慇懃な仕草でおかしそうに笑って遮った。
「随分とおかしなことを言うな、少年。私利私欲で動かぬ魔術師などおるまい。我々が管理するのは聖杯戦争の決まりごとだけだ。その後のことなど知らん。どのような人格を持った者が聖杯を手に入れようが協会は一切関与しない。
先ほども言っただろう、聖杯の持ち主を選ぶのは聖杯自身だと。そして聖杯は万能だ。選ばれたマスターはやりたい放題だろう。そしてそれを止める力など私たちにはない――――」
……と、神父はそこで、何かとんでもなく良いアイデアを思いついた。
といった風に目を細め、口元を歪に歪めてみせた。
そして、その目で俺を見下しながら、まるで最高の玩具に出会った子供のような――――
「――――そうだ。それが嫌だというならば衛宮士郎、お前が勝ち残ればいい。
簡単な話だ。他人を当てにするよりはその方が何より確実だろう――――」
「それに加え勝ち残る、ということは聖杯によってお前の望みも叶う、ということだ。
――――そう、死傷者五百名、焼け落ちた建物は百三十四棟。いまだ以って原因不明とされる十年前のあの火災、前回の聖杯戦争によって齎されたあの厄災の全て、それさえもなかったことにも出来るだろうよ」
「―――――――――」
その言葉を聞いた途端、
視界がぐらりと揺らぎ、同時に、あの日の決して忘れようのない地獄の光景が脳裏に浮かんだ。
赤。
燃える草木。溶けた石。抉れた地面。焦土。
黒。
人型。何百と並ぶ。呻き声。助けを求める声。死体。
その中を歩く。灰色の空の下、燃える空気を吸い、焼け爛れた皮膚と炭化した足を引きずって歩く。
怨嗟の声の合唱が響く中、ただ一人生き残った。
けれどソレも限界。既に死に体の俺の体は、無惨に地面に倒れ臥し、そして、そんな俺を――――
「―――――――――」
吐き気がする。
頭が痛い。感覚が曖昧だ。
焦点がぼやけ、ぐらりと体崩れ落ちそうになる。
「―――――――――っ」
だが、その前にしっかりと踏みとどまる。
歯が軋むほどに噛み締めて意識を保つ。
倒れかねない吐き気を、ただ、沸き立つ怒りだけで押し殺した。
「――――どうした少年、面蒼白になっているが……まぁ無理もない。この町に住む人間ならあの出来事によくない記憶を持っていても仕方ないというものだ」
俺はよほど蒼い顔をしていのたのか。
神父でさえそんな言葉を俺に――何故、笑いを噛み殺しているのかは判らない――かけてくる。
だから立ち直った。
ヤツは信用できない。信用してはいけない。
何を考え言葉をかけたのは判らないが、コイツはこれっぽっちも俺のことを心配などしていない。
「……アンタに心配される筋合いはない。それにアンタの変な言葉を聞いたらおさまった」
「――――そうか、ならば話はここまでだ。
それでどうする、少年。
聖杯を手に入れる資格がある者はサーヴァントを従えたマスターのみ。君達七人が最後の一人になったとき、聖杯はおのずと勝者の元に現れよう。
その戦い―――聖杯戦争に参加するのかの意思をここで決めたまえ」
神父は最後の決断を問う。
それに、
「――――勿論戦う。自分のサーヴァントと契約していたときから決めてた。ここに来たのは疑問を解決――結局は増えちまったけど、それでも心構えはできた。
十年前の火事の原因が聖杯戦争だっていうんなら、俺はあんな出来事を二度も起こさせる訳にはいかない」
自分に言い聞かせるように、決意を新たにするように力強くそう答え、
「――――そうか。ならば君をマスターとして認めよう。
この瞬間に聖杯戦争は受理された。存分に戦いたまえ――――」
そんな、意味のない宣言を聞きながら。
二度とこの男とは拘わりたくない――そう考えながら形ばかりの礼をして、出口に向けて歩き出した。
向う場所はひとつ。
己がサーヴァント、ライダーの元へ――――
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