リノリウムの廊下に、こつこつと硬質の足音が響く。
 乱れのない、綺麗な足取り。
 女に掴み上げられ、荒い息を吐きながらそれを聞いて、漸く女の言葉がこの地獄に現れた第三者……その足音の主に向けられたものだということが分かった。

「――――」

 そのよくわからない言葉をかけられた誰かは、女に返答することなくこちらに近づいて来ているようだ。
 正直、驚いた。
 この地獄の中、誰も助けられなかった、死んでしまったと思っていた絶望の中で、まだ生きていた――助けられる人に出会えたことに心底驚いた。
 そして、それ以上に、

「――――貴様はここで倒す。ライダー」

 気配から察するに、俺達にまで十メートルほどのところで立ち止まった、その誰かが発した声に聞き覚え――堅物で有名なあの教師に酷く似た、その声に聞き覚えがあって。

「――戯言を。見たところ加護は受けているようですが――所詮は人の身に変わりはない。で英霊である私と戦おうとは、とても正気の沙汰とは思えませんね」

 その堅物教師――葛木宗一郎に声を掛けられて。
 その台詞とは裏腹に、その身体を僅かに強張らせた女と、

「な、え――――!?」

 何時の間にか湧いて出て、俺達のあたりを取り囲んだ大量の骨人形と、その骨人形たちの向こう側、葛木先生の直ぐ後ろ。寄り添うによう現れた、人の形を成した黒い布切れを見つけて。

「――――っ!?」

 紫紺のローブと変化した布から、すらりとした手足が出現する。
 純粋なそれは、現代において魔法とされる空間転移を――そんな神秘を事も無げに体現して現れた、この女とはまた違った黒い女を目の当たりにして、
 それはもう口から心臓が飛び出そうなほど驚いた。
 
「――――っ。
 ……なるほど、貴方はキャスターのマスターですか。それならばこの神殿の中で生きていられるのも納得できる」

 葛木先生にライダーと呼ばれた女が息を呑む。呑んで、僅かに焦りの混じった声で、やはりよく判らない言葉を口にする。
 そんな女に掴み上げられたまま、俺は、今、いったい何が起きているのかまったく理解することも把握することもできない。
 
 突如現れた葛木先生は、何故この女を倒すなんてことを言っているのか。
 この物騒な刃を持ち、がらがらと蠢く大量の骨人形たちは何なのか。
 その人形でできた壁の向こう側。葛木先生に寄り添うように悠然と佇む、空間を転移してきたローブの女はいったい何者なのか。



 ただでさえ行き成り気絶させられて学校に連れて来られた挙句、こんな地獄みたいな光景を――――

 ――――一成や藤ねえや、皆が死ぬ――殺されている光景を見せられて。

 けれど何もできずこの女に斬られて、捕まえられて、口付けされて。



 それだけで頭がパンクしてしまいそうだっていうのに、ああもう何でこうもいっぺんに訳の判らないことばかりが続くのか。 
 
「……このような傀儡を幾ら用意したところで私には通用しません。いえ、それ以前に魔術師であるキャスターのサーヴァントでは騎兵である私には決して勝てない。それでも尚戦うというのですか、キャスターのマスター」

 感情のない声でそう言いながら、ライダーと呼ばれた女は半身をずらす。
 それで女に掴まれたいた俺も漸く葛木先生を視界に捉えることができた。
 
「そのキャスターが貴様は厄介であるからここで倒すというのだ。ライダー」 
 
 その構えは、何かの武術の型なのか。
 拳を握っている。左腕は直角に折られ、右腕は胸の位置で固定されて。
 その体制は微塵も揺らぐことなく。岩のように不動。
 纏う殺気すらなく、キャスターのマスターと呼ばれた葛木宗一郎は、果たしてこの地獄のなか、幽鬼のように立っていた。
 
「宗一郎。下がっていてください、ここは私が」

 キャスターと呼ばれたローブの女が葛木先生の前に出る。
 その選択は正しい、と思う。ただの人間がこんな化け物と素手で戦おうなんて、頭がどうかしてるとしか思えない。
 葛木先生の表情に変化は無い。
 ローブの女は片腕を掲げ、何かよく分からない言葉を早口で呟く。それがあまりにも珍しい言語だったので、いったいどこの国の言葉なんだ――と場違いな考えて、直ぐにその考えを捨てた。

「…………ちょっ!?」 

 キャスターと呼ばれた女の言葉を号令に、がらがらと蠢いていた骨人形たちが、刃物を振り上げ、鈍重な動きながらも、こちらに向って襲い掛かってきたからだ……!

「は、離せテメェ……!」

 展開が急すぎて頭が混乱している。
 混乱しているが、このままでは己が身が危ないことくらいは嫌がおうにも分かる。
 何とか女の手から逃れようと、体の痛みを無理やり無視して、いまだに残る快楽の残滓を押さえつけて、じたばたともがく。もがこうとするのだが、体は動かない。動いてくれない。

(やばいやばいやばい……!) 

 見わたす。
 骨人形たちの数はざっと五十。廊下を埋め尽くして、なお余りある。しかもその数は進行形で増えている。
 ……幾らなんでも多すぎる。

「く、っそ……!」

 だから、無理だ。逃げ切れない。
 戦ったところで、今の自分では野菜を切るそのたやすさで殺されてしまうだろう。
 これで何度目か分からない。絶望に片足を突っ込みかける。

 しかし。
 ――――そんな俺の気を知ってか知らずか、解放は直ぐにやって来た。

「――良い子にしていなさい。事が済めば続きをしてあげます」
「あ」 

 すとん、と地面に降ろされる。
 ライダーとかいう黒い女は、妖艶に笑うと、これまた急なことで呆然としている俺の頬をゆっくりとなぞって、

「目障りです」

 まさしく目にも留まらぬ速さで、わらわらと寄って来ていた骨人形達に向って駆け出した。

「――――っ」

 思わず、息を呑む。
 地面に降ろされ、腰が抜けて廊下にへたりこんだ情けない体勢のまま、ただ呆然とその光景を見た。
 それはまさしく稲妻のような一撃。
 女――ライダーが振るった短剣は、黒い閃光となって骨人形を数体まとめて打ち砕いていた。

「――――」 

 そして、打ち砕いた勢いをそのままに廊下を駆けるライダー。その速度は目で追うことすら困難。無論、鈍重な骨人形たちが付いていけるはずも無い。
 駆け抜ける紫の閃光。
 上下左右、どころか三百六十度。
 あらゆる方向から繰り出されるライダーの短剣は、ただの一撃で骨人形たちを砕いていく。その様はまるでハリケーンが通ったあとの破壊された町のよう。
 こんな傀儡は自分には通用しない。
 言葉のとおりに、ライダーは骨人形たちなぎ払う。
 桁違いの速度に、暴力。骨人形たちはなす術も――その手に持った刃物を振るう暇すら与えられず、次々にがしゃん、がしゃん、と耳障りな音を立てて崩れ落ちていく。飛び散った骨は、まるで初めから存在していなかったかのように消えていく。

「すご、い」

 一方的な戦いとも呼べぬそれに、俺は場違いにも感嘆の声を漏らした。
 そうだ。このライダーとかいう女は化け物だ。
 こんな骨で出来た傀儡人形に負けるはずが無い。コイツを打ち倒すというのなら、同じ存在でなければ不可能――そう、キャスターとかいう空間転移をつかって見せた、あの正体不明の女でもない限り。
 死の恐怖に脅えて、心をかき乱して、俺はコイツの異常さを俺は身をもって知ったというのに、そんな当たり前のことを忘れていた。

 ――――されど、

「――――くそ」

 呟いて、歯を食いしばる。
 コイツが骨人形に負けない。……だからどうした。そんなの何の解決にもなってない。
 今は成り行きから俺を骨人形から守ってくれている形になっているが、元はコイツは俺を殺そうとしていたのだ――現に、一成たちはコイツに殺されている。そして、このまま骨人形たちを蹴散らすと、葛木先生とキャスターとかいう女を殺し、その後はまた、俺を殺そうとするだろう。

 ――――そんなことさえも忘れていた。

 見遣れば、もう骨人形たちは片手で数え足りるほどしか残っていない。
 その向こう側には、忌々しげな表情をしているキャスターという女と、姿勢どころか表情ひとつ動かさない葛木先生の姿。

 どうする?
 葛木先生たちに向って逃げろ、と叫ぶのか。
 それともこの隙に俺が逃げるのか。
 ……いや、駄目だ。本当に情けない話だけれど、もう肺や頭や手足や体が限界で、のろのろと這うことしか出来ない。

「う、えっ」

 呻いて、小さな血の固まりを吐き出す。
 何とか自分を誤魔化してきたけれど、いい加減、限界が近いみたいだ。
 やたらに赤くて熱い空気は、呼吸をするたびに俺から生きるために必要なモノを奪っていっている。
 背中や腕の傷から流れ出す血が、俺が生きるために必要なモノを廊下にぶちまけていく。
 噛み締めていたはずの歯は、顎自体にまったく力が入らなくって。握りしめていたはずの拳は、指が開かれ、血にまみれていて。触れてみた頬は、融解が始まっていた。ぬるりという感触。なのに、痛みが殆ど無い。それが怖ろしい。
 視界がぼやける。思考があやふやになる。
 俺という存在が曖昧になる。
 その所為か、救急車を呼ぶとか、警察を呼ぶとか、生存者を探すとか、そんなどうしようもない考えしか湧いてこない。

 ……そして、俺がそうしているウチにも暴虐は続き、ついに最後の骨人形が砕かれて。
 紫と黒。いや、黒と黒。禍々しい二人の女――化け物が対峙する。

 

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