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「あぁぁぁぁぁぁぁあああぁ……っ!!」 

 最後に血反吐を吐き出して、立ち上がる。立ち上がって教室から飛び出す。考えなどない。ただそうしなければならないという衝動に駆られて、我武者羅に走り出す。
 景色が凄まじい速度で流れていく。満身創痍であったはずの身体のどこにそんな力が残されていたのか分からない。けれど灼熱を持った体は、それこそ弾丸の如き速度で教室から飛び出した。
 
「――――っ!?」

 入り口から、廊下へと出る。
 だが、何故か。其処に立っていたはずである肝心の女の姿がない。
 だが焦ることはない。答えは簡単だ。
 その女が直前までいた其処に居ないということは、俺が飛び出すよりも、更に早い速度で別の場所に移動しただけ。
 
「――――、はっ…………!」

 燃える空気を燃える肺に取り込む。いや、燃えているのは肺の方か。どうでもいい。どっちでもいい。体を動かす燃料が補充できれば、それで良い。
 酸素が体中の血管に行き渡る。沸騰する血液。脈動する血管。途端、火のように熱い身体が更に体温を上げ、全身に力が溢れた。
 それこそ魔術回路に魔力を通した時でさえ比較にならないほどの活力。鳩尾の痛みは更に増すが、気にしている暇はない。酸素を得た脳は、正常な思考を再開している。
 そして冴え渡る思考は、視覚で確かめるまでもなく気配でソイツの居場所を把握する。――女は二十メートルほど離れたA組の教室の前だ。

「おぉぉ――――!!!」

 振り向き、女を視界に捉えたその瞬間にはもう身体は動き出している。 
 
「――――」

 女は拳を固く握り締めて、絶叫しながら全速で駆ける俺など気にも止めず、僅かに哂ったその表情と、腕を組んだ格好のまま悠然と佇んでいやがる。
 あの女が何者なのかは知らない。知りようもない。
 赤い廊下を駆ける。あと十五メートル。
 けれどそんな事は関係ない。
 血色の廊下を駆ける。あと十メートル。
 何故だかは自分でも判らない。
 けれど、この馬鹿げた惨劇を巻き起こした張本人があの女であると、じくじくと、劫火に焼かれたように痛む左手の甲が告げていた。

「おぉぉぉ――――…………っ!!!」
 
 大きな血管と化した廊下を駆ける。
 あと五メートル。
 
「――――」
 
 女は尚も動かない。

「テメェ…………っ!!!」 

 踏み込む。
 あと三メートル。
 あと数歩、それだけの距離を踏み込めばそれで――――

「――――ふふ」

 くすり、と俺が気絶する直前に見たその笑顔を浮かべる女。
 その吃驚するぐらい端正な顔立ちも今は憎悪の対象でしかなく。
 あの日の慎二のように、そのふざけた顎を打ち砕かんとありったけの力と魔力を篭めた拳を振りかぶった、その刹那。

 ――――瞬間。背筋を死神が闊歩した。

「――――――――っ!!!???」

 全身を氷よりも尚冷たい絶対零度の悪寒に貫かれ、咄嗟に腕を引っ込めて、

「く――――!」

 真横に倒れこむようにして身体をかがめた俺の、さきほどまで胴体があった場所を、

「――――!?」

 ひゅうん、と。
 空気を切断する音を残して、何か、黒い刃物が残像さえ残さず、高速で掠めていった。

「っ、あ…………!」

 視界が反転する。続いて、どがん、という鈍い音。
 俺は駆けた勢いのまま無惨に壁に身体を激突させて、受身さえ取ることさえ出来ずその場に蹲る。いや、動く事が出来ない。
 
「あ、あ、あ――――」

 心臓が跳ね上がる。
 恐怖に理性が停止する。
 身体の震えが止まらない。歯が噛み合わず、ぶつかり合い、がちがちと音を鳴らす。赤い世界は更に色を濃くして、俺を包み込む。

「――――ほう。驚いた。あのタイミングで躱されるとは」

 じゃらん、という鎖の音。
 その音に紛れて女が何か喋っている。けれど何を喋っているかは判らない。そんなことはどうでもいい。
 
 ――――殺される。
 
 そんな言葉が頭の中を何度もこだまする。全ての思考を恐怖とその言葉が塗りつぶしていく。
 考えたくないのに、無惨に首を断ち切られている自分の姿が脳裏に浮かぶ。
 首と胴体を断ち切られ、切断面から噴水みたいに鮮血を吹き上げる胴体に、その血飛沫を浴びる首。そしてそのまま皆と同じように身体を融解させる自分の姿が脳裏に焼きついて離れない。
 
 ――――死ぬ。
 
 考えたくないのに、大切な家族や仲間たちを失ったまま、殺されたまま、助けられなかった、何も出来なかった、何もやろうとしなかった、そのまま殺される自分の姿が脳裏どころか網膜やそういった映像を捉える全ての器官に無理やりに焼き付けられる。

「は、はぁっ、はぁっ、はぁっ、はあぁっ、はあっ、はぁ」

 呼吸の速度が増す。荒くなる。頭の奥がじんじんと痺れる。
 酸素が足りない。心臓が耳の中に出来たのではないかというほど、鼓動の音が五月蝿い。あれだけ熱かった体が、今は寒い。震える肩に、かちかちおいう音を打ち鳴らす歯。
 逃れなければならないのに、指先さえ動かせない体。動かせばその瞬間にでも殺されてしまうだろうという錯覚は、きっと現実。血涙で滲に霞む視界は、本当に地獄のよう。頬に張り付いていた溶けた肉が、どろりと零れ落ちた。
 そのまま地面にぶつかって、びちゃ、という音を立てる。

 ――――それは。
 あの日の荒野や教室よりも尚濃い、圧倒的な死の気配だった。

「殺すなという命令でしたが……。さて、こうも野蛮な殺気を剥き出しにされては私も我慢、というものが効かなくなる。
 ――――まぁ、今ので戦意さえ喪失したようですが」

 女が哂っている。死ぬ。哂っている。何が愉しいのか嬉しいのか。殺される。俺が蹲って震えているのが面白いのか。面白いのか。

「ですが――――」

 また、じゃらんという鎖の音がしたと思った、その瞬間。
 
「い゙……っ!?」

 何が起きたのか――激しい痛みと、溶けた鉛を流れ込まれたような感覚に、

「あ゙ぁあああぁ……っ!」

 ――先ほどの黒い刃物で背中を切られたのだと気が付いて。
 このままでは本当の本当に殺されてしまうと。気がつけば、俺の体は、ただ必死に頭を腕で覆いながら、一刻も早くこの女から離れようと、地面をミミズのように這って後退していた。

「――――ふふ。……やはり、中々可愛いらしい声で鳴くのですね」
「がっ……、あっ――――!」

 恐怖で視界が赤から真っ白になる。
 女は愉快そうに哂いながら、地面を這う俺の後にぴったりとついて来る。そして、刃物で俺の背中を何度も切りつける。哂いながら、斬り付ける。

「ほら、どうしたのですか? 早く逃げないと殺してしまいますよ」 

 その、声や空気や殺意や、殺意とはまた違う狂気に身を震わせながら、それでもなんとか首筋や後頭部だけを庇いながら後退する。後退とすら呼べない悪あがきをする。今はソレぐらいしか出来ることがない。ソレを恥じたり情けなく思うことさえ出来ず、ただ地面を這う。

「ぐぅ……!!!」

 刃物が頭部を庇う腕を深く抉っていく。
 骨が削られたのだろうか、ギチ、という音がした。
 痛みに耐え切れず、などということはない。 
 既に痛覚が麻痺しはじめている。けれど純粋に、そのあまりもの衝撃に頭と首筋を覆っていた手が緩む。

「づっ――――!?」

 なのに。
 黒い女はあらわになった急所を狙うことなく、不様に、自らの血で出来た赤い線を残しながら廊下を這い続ける俺の背中や足を腕を斬り裂いていく。

「ぎぃっ……っ!」

 無様な俺の姿態を観て愉悦に浸っているのか。女は何度も何度も俺を斬りつけ、斬り付けられる度に俺があげる苦痛の呻きを聞く、その一瞬だけ斬り付けるのを止める。
 ずる、と俺が這う。身体を引きずる。
 じゃらん、と鎖の音を響かせて女が俺を斬り付ける。黒い刃物を振るう。
 斬り付けられた俺が苦痛の呻きを洩らす。女はソレを聞く。聞いて、笑う、嗤う、嗤う。そして激痛に刹那だけ飛んだ意識が戻ると同時に――それよりも早く俺が必死に後退する。這う。それの繰り返し。

「が、あっ…………!!!」
 
 緩んでいた腕を締めなおす。
 途端、その腕を斬りつけられ、ギチ、と音をたててまた骨が削られる。
 血飛沫が舞い、肉が削げ落ち、痛みに意識が飛ぶ。

「はぁ――――、もっと……、もっと鳴きなさい」

 そんな俺の無様な姿態を見て女が愉悦の息を洩らす。
 背筋がぞっとするような声音のソレを聞き届けることなく、戻ってきた意識を懸命に掴みとり後退を再開する。
 そして、血の線を造りながら這う俺をまた女が斬り付ける。
 その度に、逃げられない。このふざけた鬼ごっこの遊戯じみた惨劇に終わりなどない。俺もそのうち皆と同じように死ぬのだと、終わりがあるとすればそれが終わりだろうと思い知らされる。

「は、くっ――――」

 それでも。
 それでも、懸命に繰り返す。
 何十回と俺を殺せるチャンスがありながら、何故かそうしない女のことを不審に思う暇も余裕もなく、ただ必死に逃げ続ける。

「は――――はあ、はあ、あぁ――――!!!」

 呼吸が熱い。肺が熱い。身体が熱い。目が熱い。頭が熱い。心が熱い。左手の甲熱い。血液が熱い。魔術回路が熱い。全てが熱すぎて思考が纏まらない。 
 ボロボロだった服はくまなく破けて原型を留めておらず、背中と腕の肉と骨はとうにズタズタになっている。
 それでも盾にはなるのか、首筋や後頭部へと放たれる一撃を防ぎ、この、あまりにも惨めな逃走の手助けをしてくれている。
 けれど、そこに俺の意思などありえない。
 腕が動くのも、体が地を這うのも、死から逃れようとする人間としての反射行動みたいなものだ。
 そして、感じる迫力、殺意、魔力――そう、この女からはとてつもない魔力を感じる――からこの女がとんでもない化け物だということが判る。この女がその気になれば俺など瞬時に殺されてしまうということも分かる。
 だから、俺がまだ生きているのは――生かされているのは、全てこの女の意思によるものだ。

「あ―――、ああ――――!」

 されど、それでも。
 それでも、それでも、それでも俺は逃げ続ける。
 何処に向うのか、何を目指すのか、何を望むのか。
 終着点に着く、ということは俺が死ぬということではないのか。
 皆の仇をとるために満身創痍の身体を奮い立たせ戦うのか。

 ――――いつ、俺は殺されるのか。

 それさえも、そのどれさえも分からず逃げ続けて――――



「え――――?」

 その惨めな逃亡劇の終わりは、唐突にやって来た。


「な……、え――――!?」

 身体が宙に浮く。
 地面すれすれにあった顔は何時の間にか中空にあり、視界には地面に出来た血溜まりと、今まで自分が作ってきた赤い線がある。
 一瞬何が起きたのか理解できず、とりあえずあたりを見回そうとして――直ぐに俺の身に何が起きたのか把握した。
 首筋に感じる五つの酷く強い力と、冷たい感触。
 そして、宙に浮いた身体。
 まるで小動物をつかみあげるように――女が俺の首根っこを捕まえて、持ち上げたのだ。

「あ――――」

 あの細身の身体でどうしてここまでの力があるのか、なんてことでは驚かない。驚く余裕なんて無い。
 ただ、このまま首の骨を折られるのだろうかという危惧と恐れだけが頭の中にある。
 首をおかしな方向に捻じ曲げ、顔面をどす黒く変色させて口から泡を吹いた、なんていう漫画などでよく見かけるその死体が脳裏に浮かんで、その全然洒落にならない想像に、びくんと一つ身を震わせた。

「ぐっ……!?」

 女が腕を曲げ、強引に俺の体の向きを変える。
 ぐるりと背景が流れ、自然、女と至近で向き合うかたちになった。
 
「――――っ」

 呼吸を忘れた。思考を忘れた。
 視界に広がるのは、女の貌。その顔の大部分を覆う眼帯に、細く形の整った眉。通った鼻筋。潤った小さめの唇は綺麗な赤で、酷く艶かしい。まるで鮮血を引いたようだった。
 ――そんな、互いの吐く吐息の温度さえ感じられるその距離。

「――――ふふ。やはり、貴方は声だけでなく顔のほうも可愛らしい」

 果たして息を呑むほどの美貌をもったその顔は、死の恐怖に怯える俺の顔を見て、教室の入り口で見たあのときや、気絶するあのとき、先ほどの刃物を振るったあのときよりも、深く、愉悦に観た表情で嗤っていた。

「あ、ぁ…………」

 思わず声が洩れる。その声も身体も無様に震えている。俺の息がかかった女は、くすぐったそうに鼻を鳴らした。いや、不様で哀れな俺の姿を見て、愉しんでいるのだ。きっと。
 そんな女を見て、先ほどの想像が休息に現実味を帯びていく。
 首筋、うなじ辺りに感じる感触は先ほどとは変わらないのに、冷たいその手から流れこんで出た寒気や、殺意や、そんな負に属する何もかもが、何時の間にか俺の全身を支配していた。
 ――今この瞬間、俺の生死は完全にこの女の手中にある。
 その逃れえない事実が、今までの逃亡劇で感じていた死の気配よりも更に大きく、質量を持って俺に襲い掛かり、満身創痍の身体と、くじけた心を、完膚なきまでに打ちのめした。

「――――」

 ――と。一頻り、舐めまわすように俺の顔を見つめていた女が不意に首を動かした。
 ぼんやりと、ただ反射的にその動きを追う。
 すると、女は俺を掴んでいた手とは逆の手に持っていた短剣、そこに付着していた夥しい量の俺の血液を見遣った。
 そして、表情や今までの行動とは裏腹に、慈しみに満ちたような声で、

「――――可哀想に、辛かったでしょう」 

 そんな言葉を、吐きやがった。



「なっ…………!」

 その言葉を聞いたその瞬間、あまりの怒りが全身を支配していた恐怖を塗りつぶした。
 どくん、と。一際大きく、まるで号砲のように、心臓が拍動する。
 火花が散る。視界が一瞬閃光に包まれ、酷い眩暈に襲われた。
 ガチリ、と音をたてて何処かで何かが落ちる。そして次の瞬間、身体が電流を流されたかのように痺れ、再び、どこからか湧いてきた力に満たされた。

 頭の中が熱い。熱いのに冷たい。

 酷く恐怖しているのに怒っている。酷く怒っているのに落ち着いている。落ち着いているのに興奮している。恐怖。憤怒。冷静。三種三様の感情が交じり合って、俺の脳や思考回路やそういったものは、今にも爆発してしまいそうだ。
 ……今、この女はなんて言った?
 可哀想、だって?
 辛かっただろう、だって?
 
「――――っ!」
 
 ふざけている。
 ふざけている、ふざけているふざけているふざけている。
 これ以上の理不尽など無い。
 お前が。
 お前が、お前が、お前が。
 俺をこんなにしたのも、皆を殺したのも全てはお前ではないか! お前が元凶ではないか!?
 そうだ。
 そうだ、そうだ、そうだ! お前が! お前が藤ねえを殺した! 一成を殺した!! 皆を殺した!!!
 何の罪もない人々を殺した。どろどろに溶かして殺した。およそ普遍な人間の死とは程遠い殺し方で殺した。
 
 そんなお前が、そんな言葉を俺に向って吐くというのか――――!!!

「おま――――」

 拳を握り、腕を振り上げる。
 首を掴まれていようと関係ない。
 いつ首を折られるか判らない。
 いつ死ぬか、殺されるか判らない。
 けれどそんなものは関係ない。
 もとよりこの身の生死などどうでもいいのだから。
 それよりも今は、一刻でも早くこの女をぶっ飛ばさないと気がすまない。 
 いくら女が化け物じみた存在で、今の自分の体勢が悪いとはいえ、この距離では避けることは出来はしまいし、まともに喰らえばただでは済まないはずだ。
 宙に持ち上げられて、ふんばりは効かない。されど身体には力が満ちている。吐寫物や血液とともに流れ出たはずのそれは、どこからか湧いて出て、そして漲り、溢れんばかりの猛烈な勢いで身体中に迸っている。
 だから絶対に外さない。だから絶対にぶっ飛ばす。
 
 ――――なのに。



「え――――?」

 確信を持って放たれるはずだった拳は、振り上げたそのときの状態のままぴくりとも動かない。動いていない。いや、拳や腕でだけではなく、思考や、身体の運動、その全てを強制的に止められてしまった。

 拳を放つ直前。

 短剣に付いた血液をペロリ、とひと舐めした女が、その、俺の血で真紅の化粧を施した唇を、あろうことか――――

「……んんっ、んん――!?」

 ――――酸素を求めて半開いていた俺の唇に、重ねて、来た。



 その出来事を確かに視認していたというのに、俺は一瞬何が起きたのか理解できなかった。
 ただ判るのは、口の中が酷く熱いということ。何か別のものが俺の中に混じっているということ。唇に重ねられたソレが、柔らかくて温かいということ。
 
 くちゅり。
 水音がやけに近くで聞こえる。
 その音が聞こえるたびに正常な思考が出来なくなる。
 口内で何かが蠢いている。ざらざらとした何かが、俺の前歯の歯肉をなぞるように蠢動している。
 
 くちゅ、ぴちゅ。
 湿った水音が脳内に直接響いてくる。
 それで漸く、この音が俺の内で鳴っている音なのだと気が付いた。
 
「ん―――、んはっ……」 

 酸素を求めて口を開く。そして僅かに出来たその隙間から粘着質の液体が流し込まれる。息が苦しくてどうしようもない。だからそのやけに甘い液体を飲み干して、酸素の通り道を作って、また流し込まれての繰り返しで、繰り返すたびに脳が痺れて意識が飛んでいく。
 握り締めた拳は何時の間にか解かれ、筋肉が弛緩したのか、腕はだらりと垂れ下がっている。

 体に力が入らない。正常な思考が出来ない。足元がおぼつかない。
 俺という存在が酷く曖昧だ。ふわふわと宙を彷徨っている。
 事実、俺は女に摘みあげられていて宙に浮いているわけなんだけれど、とにかくそんな意味ではなくて、本当に頭の中が――――
 
「ぁ――、ふぁ……」

 耐え切れず、うめきにも似た溜息を洩らす。
 鼻と鼻がぶつかり合う。
 吐息と吐息がかかり合う。
 口と口で直接体液を流し込まれる、そんな間近に女の顔がある。
 理解する。俺は今、この女と口付けを交わしている。いや、俺は抵抗することさえ出来ず、女に強引に口内を蹂躙されている。

「んん、ん―――」 
 
 女の舌先が俺の上あごの前歯の裏を舐めた。
 脳髄が痺れる。視界が真っ白になって何も考えられなくなる。このままではいけないと、その舌を自分の舌で押し出そうとする。そうして伸ばした舌を、逆に歯で捕まえられ、女の咥内に吸い込まれ、吸い上げられた。

「――――っ!?」

 快楽に、意識は本当に消えそうになってしまう。舌と唾液を吸い上げられるだけでなく、まるで生きる活力――魔力やそういったモノまでをも、女に吸い取られてしまったような、錯覚ではなく、現実。
 このままじゃあ、本当に――――。
 駄目になってしまう、と。諦めかけた、直後。女は漸く「んふっ……」と一つ鼻にかかった息を洩らすと、ちゅぴりと水音を立てて唇を離し、俺を解放した。
 
「――っ、ぷは……っ!」

 その行為がどれほどの時間行われていたかは判らない。
 けれど、口を塞いでいた女の唇が離れたいなや、俺の身体は貪欲に酸素を求めて、熱い空気に肺と気道を焼かれるのも顧ずに、荒い息を繰り返す。 

「はぁ、は――、はぁ――、はぁ――――」

 唇と唇の間につー、と一筋、唾液でできた橋が架かっていた。きらり、と。赤く、艶やかに輝く。
 
 呼吸を繰り返しながら考える。
 何でこんなことをするのか。
 悔しいけれど、そんな疑問がどうでもよくなるぐらい頭の中は真っ白で。
 ただ、情けなくどうしようもないことに、女から口内を蹂躙されることによって齎された、その余りにも強烈な快楽の余韻に全身を酔わせているだけ。

「――――おいしい」

 女は口の周りに付着した唾液を赤い舌で舐め取ると、そんな俺を見て微笑むように、嗤った。嗤いながら、とんでもない台詞を吐きやがった。

 ――――そして、嗤って、一転。
 口元を引き締めると、表情を能面を思わせる無機質無感情に変える。
 顔を上げ、俺の遥か後方――廊下を睨み、ぞっとするような冷たい声で、

「――――馬鹿な。何故魔術師でもない人間がまだ生きているのですか」

 よくわからない言葉を、口にした。

 

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