絶叫しながら、ばね仕掛けの人形のように、跳ね起きた。

「あ――――、な、んで…………?」

 いまだ悪夢の余韻が残る頭に鞭を打ってあたりを見回すと、そこは……紛れも無い穂群原学園の教室であった。
 等間隔に並べられた机に椅子。そして連絡用の掲示板や、教卓や放送用のスピーカーなどの内装には、どれも見覚えがある。
 更に黒板に記された日直の名前からするに、ここは俺が通っていたクラス――藤ねえが担任の二年C組であった。
 だがそれを懐かしんでいる暇も、何故俺がこんな場所に居るのかと考える暇も無い。

「――――、つ…………!」

 鳩尾に激しい痛みが走る。
 思わず腰を折り、手で押さえて――腫れていたのか、触れた瞬間に更に別種の痛みが走ったので慌てて手を離し、歯を食いしばって痛みに耐える。
 どれだけの時間ここに寝ていたのかは判らないが、固い床の所為か、背中と後頭部が痛い。だがそれ以上に、あの黒い女――結局何者だったんだ、アイツは――に殴られたであろう鳩尾は酷いことにっているらしい。どんな具合になっているか確かめるのが恐いくらいに。
 ……だが、それ以上に。

「う、ぇ――――」

 悪夢の解放と同時に襲ってきていた眩暈と、おぞましさすら感じさせる吐き気に全身を打ちのめされて、まともな思考をすることが出来ない。

「は、――――ぐ」

 胃が蠕動する。
 感覚が逆しまになる。
 視界はまるで血のように――桜が流した――血のように赤く、赤く、赤く。眼球に、網膜に、その血液が滲み込んだかの如く、視界に入るもの全てが鮮血色に反転している。机が、椅子が、黒板が、俺の体が、全て、全て真っ赤になる。

「うぁ――――あ、ぐ…………!」
 
 身に纏っているものは家に居たときと変わらない。
 だと言うのに、この季節では寒すぎるであろうその格好であるというのに、身体は微塵も寒気を感じることさえない。まるで身体の中に溶鉱炉があるかのように異様な熱を持っている。
 熱い。
 水分を求めて鯉のように口を開閉させるも、何時の間にかカラカラに乾いていた口内、咽喉からは唾の一滴さえ出ず、ただ込み上げるものを我慢するために自ら手で口を無理やりに覆って開閉は終わる。
 熱い。
 体中の血液が沸騰しているかのような錯覚。
 皮膚が溶けているかのような錯覚。
 骨が燻されているかのような錯覚。
 呼吸し、体内に取り込む空気さえも熱く、肺が焼かれているかのような錯覚。

 熱い、熱い、熱い。

 その錯覚、幻想の全てが質量を持ち、姿かたちを成して俺に襲い掛かる。
 その襲撃に俺はなんの抵抗も出来ず、赤い世界の中、熱せられたアスファルトの上にあげられたミミズのように無残に身を捩じらせるだけ。

 熱い、
 熱い、
 熱い、
 熱い熱い熱い熱い熱い……………………!!!!!

「っ――――は、あ……なんなん、だ、これ――――!?」

 身体に力が入らない。
 精神。
 魂。
 俺という人間を構成する境界線があやふやになる。  
 気が狂いそうだ。いっそのこと狂ってしまったほうが楽になれるんじゃないかと思ってしまうほどに、辛い。苦しい。
 呼吸をする度に体内のモノを、何か生きるために大切なモノを吐き出しているかのよう。

「く―――、あっ…………!」

 息苦しい。喉が痛い。
 その呼吸をするのにも一苦労。
 吐き出されていく生きる力を補うために身体は貪欲に酸素を欲するというのに、肝心のその酸素が俺の体内にも教室内にも圧倒的に不足している。
 そして、喘ぐ肺に促されるように、無意識に窓へ歩み寄るために立ち上がろうと、残された体力精神力を総動員して、折った身体を無理やりに曲げのばし、足を組み替え、立ち上がる支えにするために手をついて――――

 ぶじゅ

「え――――?」

 ありえない感触に驚き、思わず右手に目を遣って。

「―――――――――」

 見慣れた学園の制服を盛り上げ、その制服の裾から飛び出した、人型の赤黒いブヨブヨしたモノを見つけた。   



 ソレを見た瞬間、脳裏に浮かんだのはハエになる男の映画であったり、原爆川原を被害に遭った人々が彷徨う様子や、被災地での暮らし、その後生き残った人々の後遺症などを特集したドキュメント番組であったり、
 
 ――――十年前のあの日、大火災の中で見た、皮膚や肉が焼け爛れた死体、
 
 であったりして――――だから俺は、コレは何かの冗談か、まだ悪夢の続きを見ているのかと思った。いや、思うことにした。
 だって人型の赤黒いブヨブヨしたそれの着ている制服には、”柳洞”と記されたバッジが胸の部分に付けられている。
 だとすれば、俺の想像が正しいとすれば、これは――この人の形をして柳洞というバッジを付けた制服を着た赤黒いブヨブヨしたモノは、その制服の持ち主たる柳洞一成、ということになってしまう。
 だから俺はコレが何かの冗談か、まだ悪夢の続きを見ているのか、はたまたこの熱に犯された頭が見せた幻影だと思った。思うことにした。思い込んだ。でないと今すぐに発狂してしまいそうだった。

 ぶじゅ
 
 ……だが、いまだ手に伝わる感触は酷く生々しい。
 俺が手を置いているのは、人でいう顔の部分。
 ほんの少し力を加えるだけで俺の指は深く食い込み、赤黒いブヨブヨした柔らかい何かは指の隙間から溢れるように踊り、絡みつく。
 
 じゅぷ
 
 そんな音を立てて。何かが破裂したのか、ぴゅっ、と赤い液体が噴出し、俺の頬に吹きかかった。
 
「――――――――」
 
 頬に手をやり、それをふき取って目前に持ってくる。
 熱く、ぬめりとした感触……何だコレは、一体何なんだコレは。
 問う。
 しかしそれに答えてくれる人間などいない。
 だから自問する。
 しかし答えなど出るはずがない。
 いまだ勢いを落さない熱と眩暈、吐き気に魘される頭の中で、誰かが「判っているんだろう? それは血だ。赤黒いブヨブヨは溶けた人の肉だ。これは人間の、柳洞一成の成れの果てだ。今、お前を苛んでいる熱に中てられて溶かされたのだ。証拠にアイツのお気に入りだった眼鏡が直ぐ傍に落ちているじゃないか」と、を掛けてくる。

「ぐ――――、あ――――っ…………!」

 がつん、と頭蓋を内側から無茶苦茶に金槌で叩かれる。
 黙れ。
 どくん、と心臓が一息でギアをフルに入れる。
 五月蝿い。
 呼気が熱く、喉が痛い。
 そんな訳がない。
 酸素が足りず、息が苦しい。
 有りえない。人間を溶かすなんて馬鹿げたこと、それこそ超一級の魔術を使わないと無理だ。この学園に俺以外の魔術師は居ない。だからこれは何かの間違いだ。この熱が疲労した俺に見せた幻影だ。

「は、あ――――、っ…………!」

 吐き気が酷い。
 眩暈が酷い。
 鳩尾が痛い。咽喉が痛い。肺が痛い。体が痛い。頭が痛い。何よりも、心が痛い。
 それでも、立ち上がる。
 この悪夢から逃れるために、酸素を、新鮮な空気を求めて立ち上がる。
 ブヨブヨから手を引き抜く。赤い液体が飛び散る。ブヨブヨが飛び散る。飛び散って、そのブヨブヨの下にあったのだろう白い何かが姿を覗かせた。
 
「はっ――――、く、あ――――、あっ…………!!!」

 それらを全て視界や思考から追い出して、口の端から胃液を零しながら立ち上がってあたりを見回す。
 ――――すると案の定、あたりには同じようなモノがたくさんあった。
 あるモノは仰向けに、あるモノはうつ伏せに、あるモノはあるモノに覆いかぶさるように。あるモノは、何かを求めるように、手を伸ばした姿で。……その中には、後藤というバッジを付けたモノもあった。
 
 ――――教壇の直ぐ傍、見慣れた虎縞模様の服のモノもある。  
 
 だがそれも、それさえも無視して、霞む視界、赤い視界、霞む思考、ふらつく足取り、溶けかけた皮膚や肉――とにかく満身創痍の身体を引きずって壁まで歩き、窓を開けた。

「な――――」

 そして、意識が凍る。
 窓の外、校舎の周り。
 其処に広がる光景を見て、混乱や困惑さえ消えうせた。

「な、んだ、これ――――」

 赤。
 俺の視界を覆う赤よりも尚赤く、鮮やかで生々しい赤が一面に広がっている。
 この学校だけが周囲の世界から切り離されたように、赤い世界に覆われている。

 祭壇。

 そんな言葉が脳裏に過ぎる。そしてそれは錯覚ではなく、実際に今、この校舎は赤い天蓋に仕舞われた祭壇だった。

「――――――――」

 意識に冷やされたのか、煮えたぎっていた血液も凍る。
 それに続いて内臓たちも凍りつき、最後に吐き気や眩暈、そういったモノさえも凍りついた。

「う、うっ――――、うぁ、あ、あぁぁぁ、あぁぁぁぁぁ…………っ!!!!!」

 ……それで漸く。
 これがあり得ないと決め付けた、”そういうもの”なのだと、受け入れた。
 そして。
 クラスのみんなも、一成も、後藤君も、

 ――――藤ねえも、
 
 この熱に溶かされてあんな姿になってしまったのだと、理解した。

「あ、あぁ……あ、あ、ああ、ああああぁ、あぁぁぁぁ――――っ!! う、うぁ、うあああぁ、うああぁぁぁぁぁ―――――――――っ!!! うあああああぁぁぁぁぁがああああぁああっあぁぁっっっ!!!!」

 続いて、また俺は、大切な人を救えず。

 ――――気がつかないままに失ったのだと、理解した。

「あっ、うぇっ……! あっ、あぁぁ、いっせぇ、ふじねぇ――――!!!」

 涙が止まらない。
 どこから湧いてきたのか、枯れ果てた筈のそれが頬を伝い地面に落ちる。ぽたぽたと零れるすれでさえ、赤色。いや、実際に俺は血涙を流しているのかもしれない。
 後悔が止まらない。
 何故俺はこんな事がおきていたいうのに呑気に気絶などしていたのか。
 怒りが収まらない。
 何故皆がこんな目に遭わなくちゃいけないのか。あの黒い女は何なのか。
 
 ―――何故俺は、大切な人を救えなかったのか。

「あ、あぁぁ、あっ――――、あぁぁ…………」

 そんなことは判っている。自分が一番理解している。
 桜を失ったショックで家に引きこもり、何もかも投げ出して堕落した生活を送っていたからだ。俺の生などどうでもいいと、何かと理由をつけて現実から逃げ出していたからだ。
 ……でも。
 でも、だからといって、俺に何が出来るんだ。
 結局桜を、一成を、藤ねえを、皆を救えなかったのだ。
 半端な俺は初歩の魔術さえ碌に扱えない。
 背も低い。身体は鍛えていたけれど格闘が上手いわけでもない。頭も悪い。
 皆を助けたかった。けれどこうして助けられなかった。
 過ぎたことは無かったことに出来ない。だから現実を受け入れなければならないのに、俺はそれさえも出来ない。今すぐに逃げ出したい。何もかも無かったことにしたいと、切に願っている。
 
「くそぉ……くそぉ、くそぉ…………!!!」

 複雑すぎる感情の波にさらわれて血の海で溺れている。
 もがいて、もがいて、もがいて、深く、深く、深く、一直線に奈落の底へと沈んでいく。手招きをする地獄の亡者たち。その手を取って、深淵の地獄へと、堕ちていく。

「うぇっ……、げっ、うぇ――――っ」

 思い出す。いや、思い出すまでもない。教室内、知らぬ間に地獄と化していた其処の光景がいやがおうにも脳内に映し出される。
 思い出す。溢れ出る。十年前のあの日、あたり一面を覆う劫火に焼かれた死体たちと、死体が広がる荒野を只一人、満身創痍の身体を引きずって歩いている自分を思い出す。
 
「げ、げぇ、がぼ――――、げぼっ…………!」

 あまりにもリアルすぎるユメは、現実を侵食する。
 途端、凍りついた筈の吐き気がぶり返してきて、耐え切れず、朝食べたモノと血液が混じったモノを床にぶちまけた。
 
「げぇ、げぼっ……!」

 嘔吐が止まらない。このまま臓物さえも吐き出してしまうのではないかという勢いで、胃が蠢動して、内容物を外界に放り出す。
 あたりに立ち込める酸性に臭い。その臭いと、血の臭いと、焼け爛れた肉の臭いとが混じって、そのおぞましい臭いの所為で更に吐き気が増していく。

「がぼっ、ぐぇ、ぐぇほ、げぼっ、ご……っ!」 

 びちゃっ、びちゃっ。
 飛び散った嘔吐物が服や腕にはり付く。……はり付いたが、そんなことはどうでもいい。
 だって、

「げっ、え――――、アイ、ツ……」

 偶然に――いや、何かに誘われるかのように視線を向けた、その先。

「あ、ああ、あああぁぁぁぁぁ…………っ!!!!!」」

 俺を殴ったあの黒い女が、口元を吊り上げて。
 まるで自分がこの赤い世界、地獄の支配者だとでも言うように。
 吐寫物と血にまみれた俺を見下し、腕を組んで、悠然と佇んでいやがるのだから――――!!!


 

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