雷画爺さんってのは俺が思っていたよりもずっと凄い人で、俺は人間一人に打撲骨折内臓破裂脳挫傷、つまり瀕死の重傷を負わせたっていうのに、年少に入れられることも無く、ただ一人で住むには広すぎる屋敷で無機質な日々を過ごしている。軟禁ともいうが、そんなことはどうでもいい。広域指定暴力団、というヤツだ。警察や裁判所にも顔が効く――どころの話じゃないが、このことを感謝していいのかどうかすら俺には分からない。
 藤ねえは初めのうちは何度か心配して顔を出してくれたが、何を問われても返事すら返さない俺に愛想が尽きたのか、泣きながら俺の頬を思い切りひっぱたいて、そのままどたどたと走って出て行ってしまった。……そして二度と家に来ることは無かった。

『士郎の馬鹿……っ! もう知らないんだから…………!!!」

 藤ねえは俺が慎二に凶行を働いたことを知らない。桜が慎二に殺された、ということも知らない。だから余計に心に負担がかかっていたのだと思う。なのに俺は――藤ねえよりずっとどうしようもないところまで来てたから、また家族を一人失った、という感傷すら起きなかった。
 頬の痛みに涙を流すこともなく、ただ、藤ねえが泣いたのは親父が死んだとき以来で、珍しいこともあるもんだと思った。――桜は表向きには行方不明、ということになっているのだ。

「……あれ」

 なら、どうして俺は桜が慎二に殺された、ということを知っているのだろうか。確か、桜と慎二の祖父と名乗る人から――――

「あ、れ」

 ――――分からない。
 分からないというか、忘れてしまった。覚えていない。そもそも、桜と慎二に祖父など居ただろうか? どうでもいい。もう、どうでもいい。





 二月の初めの、風は寒いのに日差しは温かく、ともすれば風邪をひてしまいしそうな、変な日だった。
 雨戸を閉め切った屋敷内は、まるでお化け屋敷のように薄暗く、現にお化けみたいな俺しか住んでいないのだから、何処かの洋館よりもずっとお化け屋敷然としているだろう。空気はねっとりとして、すっぱく、普通の人なら吐いてしまっても仕方がない。――お化け屋敷というよりは、殆ど廃屋に近かった。住んでいるのも、半ば廃人同然なのだから。
 今となっては何の役にもたたない悲しい、無意味な習慣。意識せずとも体は勝手に引きっぱなしの布団から午前六時きっかりに起き出す。いつも土蔵で寝て怒られていたというのに、こんなときにだけ布団で寝ている自分がおかしいが、笑ってくれる人はいない。俺は笑う気力すらない。起きて、それから気が向いたときに服を替えることもあるが、今日もまた、藤村組の人が玄関先に置いてくれた食事を自室に運び、口に入れ、顎を動かし嚥下して、食器を洗って元の場所に戻す。水道代も電気代もガス代も何かも払っていないのに水が出て電気が付いて、湯が沸かせる。おかしかった。おかしくて、申し訳なくて、何度親父の遺産と俺の貯金を雷画じいさんに渡そうと思ったか分からない。
 
「つ――――」

 と、埃が積もった板張りの廊下を歩いてると、ふいに左手の甲に痛みが走った。
 何事かと思って目を遣ると、そこには痣のような赤い幾筋かの腫れがあり、そこから血が零れいてるようだった。

「おかしいな、どこかで切ったかぶつけたか……?」

 無精ひげよろしく、さぞかしむさい相貌になったろう顎に右手を当てて、その怪我に心当たりが無いか思案する。
 昨日今日でこんな怪我をするような行動は……勿論していない。だったら、どうして。傍目でもおかしな傷だ。外的要因によるものではなく、まるで体の内側から浮かび上がったような傷。腫れ。よっぽどのことが無い限り、こんな傷、出来ないはずだが――――

「――――」

 それは軟禁生活に入ってからというものの、無気力無感情無機質に生きる毎日の中で、実に久々に思案であったが、答えは意外にも直ぐに導かれた。

「…………どうでもいいか」

 そう。どうでもいい。だからそれで思案は終わり。
 もとより身体など心配して何になろう。そう、何にもならない。自分でも自分が生きているのか死んでいるのか曖昧なのだ。心が死んだ人間を死んだというのなら、俺はもう死人だ。死人の身体などどうでもいい。死人はただ、埋葬されるか朽ちるだけだ。
 俺など、もうどうにでもなってしまえ。
 俺は洗面所に向かい、灯りも点けず、もはや別人となってしまった自分と睨めっこをしながら、血だけを洗い流して……栄養失調なのか。ふらつく足取りで自室に戻った。
 そのまま布団に倒れこむ。

「……どこで、間違えたんだろう」

 舞い上がった埃を手で払いながら、誰に向けてでもなく、そんな問いをした。勿論答えなど返ってくるわけもない。空気の振動はやがて終わり、部屋には静寂と脆弱な死の気配が戻ってくる。

 時計の針は、まだ午前七時をさしていた。

 

 

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