――――ただ、慎二を殴る直前。
――――桜の笑顔が脳裏に過ぎったことだけは、覚えている。
腹部を強打されたことによる切迫流産が引き起こした出血性ショック死。
子宮の大きさから妊娠は三ヶ月目に入っていたらしいが、外観上からは桜が妊娠していたかどうかの判断はできない……いや、できなかった。裸体や専門の人が見れば判ったのだろうが、少なくとも制服姿と、弓道着姿、そしてエプロン姿しか見たことがない俺はまったく気がつかなかった。
きっと――いや、間違いなく桜は苦しんでいたと思う。悩んでいたと思う。誰も相談できる人が居なくて、どうしていいか判らず、苦しんでいたと思う。悩んでいたと思う。
なのに、桜は妊娠したことなど微塵も感じさせず、いつもどおり俺に安堵できる日常を与えてくれた。
俺もそれを当たり前のようにこれからも続いてく光景なのだと、そんな幸甚を感じるべく日常を、ただ当たり前に過ごしていた。
何の疑問も持たず、何の疑念も持たず、何の不安も持たず、子供のように、ただ与えられた幸せに酔っていた。本来なら己が守らなければならないその幸せを、あたり前なものなのだと勘違いして、馬鹿みたいに過ごしていた。
――――だから、俺は、そんな自分を殺したくなる。
気が付かなかった。
気付いてやれなかった。
力になれなかった。
力になってやれなかった。
死なせてしまった。
死んでしまった。
知らないうちに、知るよしもなく。何も出来ないまま、桜は逝ってしまった。止めれたかもしれないのに、防げたかもしれないのに。止めなくちゃいけなかったのに、防がないといけなかったのに、桜は、もう死んでしまったのだ。
もうどんなに悔やんでも、枯れ果てた涙を流そうと瞼を震わしても、柱に頭を打ちつけようと桜は帰ってこない。
俺の大切な家族だった桜はもう我が家には帰ってきてくれない。
一緒に料理をすることも出来ない。
くだらないテレビ番組を見て笑うこともできない。
遠慮する桜を半ば強引に送っていくこともできない。
土蔵で眠ってしまった俺を起しに来てくれることもない。
笑うどころか、目を開くことすらない。だって、だって、だってもう……桜は、死んでしまったから――――
――――いいや、それは違う。
……そうだ、それは正しいけれど、違う。
桜は死んだ。殺されたんだ。殺されて、死んだのだ。
そうだ。殺された。何の罪も無いのに殺された。何も悪く無いのに殺された。とても良い子なのに、殺される謂れも理由もこれっぽっちも無いのに、理不尽に、殺された。
殺された。殺された。ころされた。コロサレタ。コロサレた。コロサレタ。殺された。殺された。
――――慎二に、殺された……!!!
「はぁっ、はぁっ、はぁっ」
肩で荒い息を吐く。喘ぐように酸素を貪る。
足りない。酸素が足りない。その所為か、頭は電流が走ったかのように痺れ、視界は赤色のフィルターに覆われている。
酸素が足りない。だが、そんなことはどうでもいい。俺は全身にかいた嫌な汗を拭うこともせず、足元にころがったソイツの姿を見下ろした。
「――――」
壊れたデッサン人形のようだった。衣服は乱れ、破れ、関節はあらぬ方向に捻じ曲がっている。顔は原型を留めておらず、歯は全て折れている。――慎二は全身を自分の血で真っ赤に染め、ぴくりとも動かない。
赤が混じった白目は濁り。潰れた鼻からは白い液体が、顎を砕かれているせいでだらしなく開いた口からは泡と血と、胃液が溢れ、上腕の途中から想像していたものよりずっとくすんだ白色の骨が肉を突き破って飛び出している。
「はぁっ、はぁっ、はぁ、あ……あっ」
桜のことで話があるから放課後、部活が終わったあと弓道場に残っていくれ。
そう告げると慎二は……思うところがあったのだろう、酷く狼狽していた。
恐らく、そこで俺に何を話される――されるのか、直感的に悟ったのかもしれない。
「はぁっ、はぁ、はぁ、はぁ、はぁ、は――っ」
どうして慎二はそれを分かっていて弓道場に残ったのだろうか。今思えばおかしなところは沢山あった。だが、気が付いたとき強化した拳は易々と慎二の顎を砕いていた。
「うぎ……っ!?」
素っ頓狂な意味を成さない言葉と、ぐしゃりだかばきゃだか生理的嫌悪感を感じさせる音を残して、慎二は血を撒き散らしながら吹き飛んだ。すかさず近寄って腹を蹴り上げる。
「うげっ、がふっ、ぎっ、づっ!」
何度も何度も何度も蹴り上げる。つま先が鳩尾やわき腹を捉えるように、全力で蹴り上げる。
「がぁっ、ぐぇっ、いづっ、いっ、げっ……!」
蹴り上げるたびに慎二は苦悶の声を漏らす。口から血と涎を吐いて、体を丸め、両の腕で頭を守っている。既に肋骨の殆どは折れている。もしかしたら折れた骨が内臓を傷つけているかもしれないというのに、叫び声一つ上げず身を守り続けている。
それを場違いにも見上げた根性だと思った。だから――余計癪に触る。
俺は慎二の体を無理やりひっくり返し、マウントポジションを取って、顔を覆う両腕五越しに顔面と腹を殴った。殴って、殴って、殴り続ける。
「はっ、ふっ、はぁっ、はっ……!」
どれくらいそうしていただろうか。
分からない。顔をガードしていた両腕を折られ、守る骨を失った腹を殴られ、内臓を破裂させたのか――一際大きな血反吐を吐いた慎二はそれきりうんともすんとも動かなくなって、けれど俺はそれからもずっとずっと殴り続けていたと思う。強化の魔術などとっくに効力を失って、己の拳の皮膚や骨がボロボロになっても、ずっと殴り続けていたと思う。
「はぁ、あっ……! はぁっ」
酷い鉄さびの臭いが鼻をつく。弓道場には俺の荒い呼吸音と慎二を殴る鈍い音だけが響いている。
拳を振りあげる。下ろす。
ごすっ
拳を振りあげる。下ろす。
ぐしゃ
拳を振りあげる。下ろす。
ばきっ
拳を振りあげる。下ろす。
ぐしゃっ
拳を振りあげる。下ろす。
ぐしゃっ
拳を振りあげる。下ろす。
どごっ
拳を振りあげる。下ろす。
ぐしゃり――ぐしゃ、り?
「……」
異様な音と感触に我に返ってみれば、もうソコにあったのは人間ではなかった。
「――――」
立ち上がって、ソレを見下ろす。
壊れたデッサン人形のようだった。衣服は乱れ、破れ、関節はあらぬ方向に捻じ曲がっている。顔は原型を留めておらず、歯は全て折れている。
――慎二は全身を自分の血で真っ赤に染め、ぴくりとも動かない。
「……ふんっ!」
ぼきり
ヤケにふにゃふにゃとした腕を押さえつけて、これでもかと骨を折った。続いて足を折る。
ぼきり。ぼきり。
小気味良い音が、弓道場と俺の頭の中にやけによく響いた。
「――――」
……そこから先は覚えていない。
どうやって家に帰ったのか。慎二だったものをどうしたのか。血でぬるぬるになってしまった弓道場をどうしたのか。
分からない。
覚えていない。
だが、どうでもいい。
ただ、知らぬ間に目が真っ赤に腫れるほど涙を流していた、ということだけを覚えている。
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