子供だった自分にとって、この家だけが世界だった。 だから親父と藤ねえと自分と、お気に入りの土蔵さえ護っていれば良かった。 そこにもう一人護るべき人が加わったのが最近のことで、護れずに失ってしまったのがつい先日。 ――――結果は一番大事だ。 けどソレとは別に、そうであろうとする心が―――― ――――折れてしまったのが、今の自分。 最悪の結果の前に打ちのめされ、完膚なきまでに叩きのめされた。 衛宮士郎という正義の味方に憧れていた剣は、ぽっきりと、折れ、朽ち、粉々に散ってしまった。もうどんなに研いでも、叩き直しても、蘇ることは無いだろう。 薄暗い廊下を歩き、玄関に向う。 踏みしめるたびに、もうすっかり歳をとってしまった板張りはぎしぎしと悲鳴をあげる。 その音が、まるで俺を嘲る嗤い声のようで――別にそれがなんだと、嗤いたければ好きなだけ嗤えばいいと、一歩一歩力を篭め、わざと音を立てながら歩く。 ほどなくして玄関にたどり着く。 チャイムが鳴らされたのは、五回や十回どころの話じゃない。ヒステリーを起こしたかのようにピンポンピンポンピンポンと立て続けに鳴らされて、悪かった気分がさらに悪くなった。 ……なんてデリカシーと常識の無い奴だ。 初めのチャイムから俺が玄関にたどり着くまで一、二分しか経っていないというのに既に三十回以上はチャイムが鳴らされている。あんまりにも鳴らされて五月蝿いので、数を数えるのが途中から阿呆らしくなった。 扉を開けたらまずは文句を言ってやろう。 そんなことを考えながら、引き戸の取っ手に手を掛けて―――― 「あれ……?」 と、何故か。 あれだけ激しくチャイムを打ち鳴らしたというのに、そこに在るべき――すり硝子越しにぼんやりと見えるはずの来客の姿が無い。 「……帰ったのか」 しかし、最後のチャイムが鳴らされてからまだ十秒ほどしか経っていない。 今外に出ればまだ小径のところに居るかも知れないが……はたしてそこまでする必要があるだろうか―――― 「……ま、一応」 ――――無い。 そんなことをする必要は絶対に無い。 ……だというのに。 俺は何故か――何かに誘われ、促されるように。がらがらと引き戸を引き開けて、裸足のまま外に出た。 ……五歩ほど歩み出て、周囲を見回す。 案の定そこには人影なんてものはなく。どんよりとした曇空の下、すっかり伸び放題になってしまった雑草が、時節吹き抜ける冷たい風に揺れているだけだった。 「……やっぱり帰ったのか」 もう一度だけ周囲。石畳が並ぶ道を門戸のところまで見渡して、別に落胆したわけでもないのにそんな台詞を呟いた。 「さむ――――」 ひゅう、といかにも寒そうな音をたてながら、一際強く冷たい風が吹きすさむ。その風にあてられて、俺は自分の肩を抱いた。 今日の身なりはところどころ染みや擦り切れや、新たに今日付いた血痕などが目立つ長袖のシャツに、此処一週間ほどはきっぱなしのジーンズである。このまま外に居れば風邪をひくことは確実だが、別に風邪をひこうがひこまいがどうでもいい。しかし、風邪をひいたらひいたでまた色々と厄介なのもまた事実――別に風邪を拗らして死んでもいい。だが、もし死ぬのなら、その前にどうしてもやりたいことが……決して成し得ないだろうが、一つだけある――である。 さらばこんな処に長居は無用。 さっさと自室に戻って、また無意味な時間を過ごすとしよう。 「――――――――」 踵を返す。 右回りに半回転して、玄関へと向き直る。 そして、右足を踏み出し、歩き出そうと顔を上げて―――― 「え――――――――」 ――――不意に。 本当に不意に、何時の間にそこに居たのか、気配さえ感じさせずに、ソレはいきなり俺の視界に飛び込んできた。 「――――――――」 ……思考が停止している。 あまりのことに声が出ず、呼吸すら止まってしまった。 「――――――――」 時が止まってしまったかのような錯覚の中、ソレと対峙する。 対峙して、何故か冷静に観察する。 ――――視界に飛び込んできたソレの正体は、黒い、闇が結晶したような長身の女性の姿だった。 ……その容貌はとても人間のモノとは思えない。 清楚な顔立ちに反して、纏う衣裳は血が変色したような黒をしたボディスーツ。 地面まで届きそうな紫の髪からは血の匂いがして、なのに同時にとんでもなく美しい。 この服と彼女の顔立ちは、まったく合っていないんじゃないだろうかと思わせる程にその女性は美しく、なのに血の匂いがして、冷たく、怖ろしくて。 ……酷く人間味が欠けている。 邪悪でありながら神聖――例えるなら、血に濡れた巫女。そんな印象を受けた。 「――――――――」 女性は何も言わず、ただじっと、まるで宝石のような瞳で俺の瞳を射抜いている。 貴方はだれなのか、どうしてここにいるのか。 そう口にしようとするのだけれど、俺の口……どころか全身は、女性の瞳に射抜かれたその時の状態のまま、ぴくりとも動かない。 それでも、何とか声を出そうとして全身の力を振り絞る。 だが、咽喉を幽かに震わせる、なんてことすら出来やしない。 それどころか瞬きすら出来ないし、呼吸も止まったまま。 幾らなんでもコレはおかしいだろ、と思うのだが、思うだけでどうにもならない。 ……そう。 俺は女性の宝石の瞳に射抜かれたまま、まるで身体が石になってしまったかのような―――― 「――――――――」 ――――と、今まで僅かたりとも表情を変えなかった女性が、小さく、本当に可憐に微笑んだ…………その瞬間。 木槌で思い切り殴られたかのような衝撃が俺の鳩尾を襲い、全身を駆け巡って脳を打ち揺らし、抗う暇も術も無く。俺の意識はまるでテレビの電源を消すかの如くあっけなさで、瞬時にして消し飛んとんだ。 |