――――それは私自身が選んだのではなく、運命だったのである。
遠坂の色を濃く残した髪は、梳いて止まることなく。桜は衛宮邸の洗面所で髪型を整えながら、今朝は何と声を掛けて士郎を起こそうか考える。 「――――」 カラオケは苦手だけれど、鼻歌交じり。鏡で逐一おかしいところが無いかチェックしながら、頭の中で色々とシミュレートする。 いつもどおり「先輩、もう朝ですよ。起きてください」がいいだろうか、それとも「士郎さん」と言ってみようか。 「し、し、ししし……」 かれこれ七年の付き合いになり、半ば結婚前のカップルの如く同棲をして4年になるが、下の名前で呼んだことなど殆どない。いや、小さいころは桜ちゃん・士郎くんと呼びあっていたが、色々と成長するにつれて何時の間にか桜・先輩と呼び合うようになっていた。二人の関係を知っている学友からは初心だのらしくないだの馬鹿だの散々な言われようだが、士郎”さん”はあまりにもアレだ。ためしにと鏡に映った自分に士郎の像を重ね合わせて練習してみるが、士郎さえ言えない。だって新婚さんみたいなんですもん。 「――――っ!」 真っ赤になった頬を両手で押さえながらいやいやする桜の顔は、いずれ来たるだろう幸福の日々への期待と現在の生活への満足に、これ以上無いほどの喜色が湛えられている。桜のいやいやは鮭の切り身からステキな黒い薫りが漂ってくるまで、かれこれ十分ほど続いた。
そういう訳で目覚まし時計をセットしているわけもなく、ちゃんと部屋で寝れば六時前に目を覚ます士郎ではあるのだが、土蔵で寝てしまったときは桜に起こしてもらうのが常になっている。 ひゅう、と換気のためにあけていた窓から風が吹き込んだ。外よりかなり暖かい土蔵の内部とはいえ、こうして窓が開いていてはあまり意味はない。士郎は盛大に鼻水と飛ばしながらくしゅん、と一つくしゃみをして、ぶるると身を震わせた。 「――――ん」 震わせて、あまりもの寒さに流石に目を覚ます。のそりと体を起こし、ぽりぽりと頭をかきながらあたりを見回す。そして自分が土蔵に居ることを確認またやっちまった、と忸怩するのも常になっている。 「……六時過ぎか」 時計を見遣って時刻を確認したあと、ふわぁ、とあくびをして目をこする。立ち上がり、深呼吸して完全に目を覚まし、作業着を脱ぎ制服に着替える。と、そこで士郎は今日は桜が来なかったということに気が付いた。 「――――」 幾らなんでも一週間も続けて土蔵で寝ちゃったら私どうかしちゃうかもしれませんよ? と笑顔でない笑顔で語った桜の顔が思い出される。けれど大丈夫、まだ五日目のはずだ。 朝飯の用意は昨夜のうちに済ませておいたから、きっと女の子の理由だろう。士郎は背中を冷や汗が伝うのを感じながら、長い付き合いの中からそう判断して、土蔵を出た。
士郎がキッチンへと続く居間に入ると、あとはテーブルに並べるだけと食器棚を覗いている桜の後姿が見えた。中々目当ての食器が見つからないらしく、背伸びをして上の段を探してはあせあせ、普通に中の段を覗いてはあせあせ、しゃがみこんで下の段の中を覗いてはあせあせと右往左往している。その姿、特に桜の動作にあわせてせわしなく横へ縦へと振られるおしりに暫し目を奪われてから、士郎は「遅れてすまん、俺も手伝うよ」と声をかけた。 「―――っ!?」 士郎が声をかけると、桜は驚いたのかびくんと肩を震わせて恐る恐るといった感じで振り向いた。それを見た士郎が怪訝な表情を浮かべる。はて、何をそんなに慌てることがあるんだろうか。まだ時間は大丈夫だし、まさか食器が見つからないところを俺に見られたのか恥ずかしかったのか――。と、そこまで考えて、士郎はあることに気が付いた。手で覆われた桜の口元がなにやらモゴモゴと動いている。 「桜? どうしたんだ、もしかして何か――」 「っ! ふぇ、先輩……! ここはいいですから、しゅ、座って待っててください……っ」 桜の口の中には先ほど焦がした鮭の切り身の焦げた部分を削いだモノが入っている。あれからもう一枚焼きなおしたのだが、焦がした分がもったいないという事でそれなら食べられるところは食べちゃおう、ということになったのだ。常人ならば三口で完食というところをほいっと一口に頬張ったので上手く喋れない。 「そ、そうか……。じゃあ待ってることにするよ」 桜としては朝食前にそんなこと、と鮭を焦がしたことを知られたくないので何とか隠そうと必死なのだが、三角コーナーにそがれた部分が顔を覗かせていたり変な喋り方で流石の士郎にもバレバレである。あるが、長い付き合いの中でそのあたりを汲み取る能力を身につけた士郎は黙って居間で待つことにした。
士郎は桜のああいうところは可愛いというか何というか――と、くすぐったいような嬉しいような何だか申し訳ないような変な気分になりつつ専用の蒼い座布団のうえに胡坐をかいて座った。ちなみにテーブルを挟んで向いには桜の桃色をした座布団が敷いてあり、士郎のモノとあわせて夫婦模様になっていたりする。さらに茶碗や湯飲みも夫婦使用だが、十割方桜が買ってきてくるこれらに十割方士郎は気が付かない。 「ん」 士郎はその湯飲みに茶を淹れてずずず、と一口啜り、リモコンでテレビのスイッチをいれた。
『――――先日、タレントの○○○○の息子さんが、かねてから交際していた女性と婚約していたことが明らかになりました。息子の○○さんとお相手の女性はともにまだ高校三年生であり、籍を入れるのは卒業後に――――』
商業スマイルを浮かべる女性のキャスターがそこまで喋ったところで、こんなに早く動けたのか、俺。と、士郎は自分で驚くほどの速度でテレビのスイッチを消した。 このニュースはまずい。いや、おめでたいニュースなんだけどとにかくまずい。幾らなんでも早い。早いと思う。高校生で婚約? 経済的に……いや、親が芸能人ならそこは大丈夫か――そういや親父の遺産がかなりの額に、って待て。自分で働かないと意味が無いだろ――生活費は大体バイトでまかなえてるな、って待て。まだ子供だ。結婚したらあれだろ、ほら、子供とかもそのうち――俺がそんなこと言えるタマか、って―――― 「待てぇい! 俺っ!」 士郎はだん、と湯飲みをテーブルに叩きつけて雄たけびを上げた。頭を抱え込んで左右に振る。振って振って振りまくってどうにか脳裏に浮かんできたウェディングドレスを着た誰かとタキシードを着た誰かとベビーベッドに寝かされた誰かの像を振り払ろうとしたところで、 「何を待つんですか、先輩?」 「……っ!?」 ウェディングドレスを着た誰かによく似た――お盆を持って居間に入ってきた桜に声をかけられて、心臓を止めかけた。 「い、いやっ、なんでもない!」 「はぁ……」 顔を真っ青から真っ赤にとコロコロ変えながら手を振る士郎を見て桜は首を傾げたが、流石にそろそろ朝食にしないと時間的にも危ないということで、それ以上は気にせずに配膳をはじめた。 士郎は二、三度深呼吸をしてから「俺も手伝うよ」と言って立ち上がり、キッチンへ行って炊飯器を持ってくる。入れ替わりにおわん類を並べ終えた桜がキッチンへおかずを取りにいって、その間に士郎は茶碗にご飯をよそい、湯飲みにお茶を汲む。汲み終えたところでおかずを持ってきた桜がそれをテーブルの上に並べて、朝食の準備が完了する。流れるようなスムーズさ。これまた長い付き合いの中で自然に身に付いた。
「いただきます」 士郎と桜は二人揃って向かい合って席につき、きちんと手を合わせていただきますをする。食事中はかちゃかちゃと箸の音や、味噌汁を啜る音が響くのみ。二人とも食事時におしゃべりするほど多芸ではない。醤油を取ってくれ、などはもう口に出さずとも雰囲気で判り、おかわりもソレに同じ。 ここにもう一人増えるなんてこともあるにはあるが、最近は二人に気を利かして自宅で食べることが多い。それを嬉しく思うのは二人ともでもあるが、今日みたいな雰囲気のときは困ることもある。士郎は先ほどから桜の制服がウェディングドレスに見えて仕方がない。 「落ち着け落ち着け落ち着け……」 士郎は心の中で何度もそう唱えながら、醤油をたらしたとろろ汁をごはんにかけてがつがつとかきこむ。 旨い。摩り下ろされた山芋の粘つき加減と、控えめな自己主張の醤油の上品な辛さが堪らない。 桜と――したら毎日こんな料理が食べれるんだなぁ、でも毎日作ってもらうのは悪いなぁ。と、そこまで考えたところで士郎はお茶を一気飲みしてその考えごとごはんを流し込んだ。勢いが良すぎて少々むせたが気になどしていられない。駄目だ。今日は駄目だ。 「先輩、大丈夫ですか?」 「あ、あぁ。大丈夫」 気遣わしげな桜の視線も言葉も今は逆効果だ。赤くなった顔を秘すように横を向きながら返答した士郎は、ごほん、ともう一度だけ咽こんで、垣間見えたベビーベッドに寝たうっすらと赤みがかった髪の毛をした誰かを脳裏から振り払った。 「先輩、裏手の戸締りはしました?」 「したよ。かんぬきかけたけど、どうかしたか?」 「いえ。それじゃあ鍵かけますね」 桜が合鍵で施錠する。士郎はその間にゆっくりと歩き出していて、それを追うように桜はぱたぱたと小走りで駆け寄っていき、隣に並ぶ。小さな頃は手を繋いだりなどしていたが、今はときたま雑談をするくらいである。しかし二人の間に流れる空気は穏やかそのもので、この並んで登校する時間を二人は気に入っていた。 二人はそうやって登校する生徒が多くなる坂の手前まで並んで歩いて、ソコからは少し離れて歩く。付き合っている――本人たちが自覚しているかどうかはこのとき問題ではない――のを隠すための行為なのだが、勿論そんなことをしてもバレバレなのは言うまでも無い。 「それじゃあな。部活、頑張れよ」 まだ七時で、運動系の部活動が盛んな穂群原学園とはいえ人気は少ない。されど向けられる怨嗟や羨望や多種多様の視線の中学園に到着すると、士郎は桜にそっとそう告げて別れる。士郎は生徒会に頼まれた備品の修理があり桜には弓道部の朝練があるのだが、たまに士郎が弓道場に寄ったりすることもある。主に桜に頼み――お願いされて。 「はい。お昼はいつものところで」 桜は早口のそう告げて弓道場に走り去っていく。いつもの所というのは屋上の給水塔の裏で、校舎からは死角になっており、二人はいつもそこで弁当を食べるのが習慣になっていた。 「――――」 走り去る桜の後姿に目を奪われそうになるのをぐっと耐えて、士郎は歩き出した。 今日はたしか音楽室のストーブだっけか。放課後はバイトがあるから朝のうちに終わらせてしまおう――
「悪い」 士郎はぺこと頭を下げながら室内を見回して、下げていた頭を今度はかしげた。仕事熱心で有名な穂群原学園の生徒会の面々だが、どうして今日は会長の一成一人しかいない。 「あれ? 他の連中はどうしたんだ。この時間なら登校してるはずだろ」 「いや、生憎とうちのメンバーはビジネスライクでね。働く時間帯はきっかり決まっていて早出や残業はしたくないのだそうだ」 目を閉じ左手をポケットに入れながら淡々と語る一成を見て、士郎はあんまり触れない方が良い話題だったかな、と思いつつも「そうか。ここもここで大変だな」と言い返しておいた。一成はその言葉に不満があるらしく「好きでしている苦労だ。衛宮に同情してもらうのは筋が違う」とそれに返す。 「? いや。俺、一成に同情なんてしてないぞ」 と、今度は士郎が一成の言葉に不満を持った。本当に、と言った風に、少しぽかんとしつつ言ったその言葉は本心で、生徒会長ならそれくらいして然るべきと士郎は考えている。大勢を纏める人物が皆の先頭に立つのは当たり前だろう。うん。それが備品の修理、というのが少しアレだけれど、備品の修理は生徒が勉学に集中しやすい環境を作るという意味ではとても大事だ。 「……それはそれで残念だが聞き流すとしよう。情が移っているという事では同じだからな」 トントン、と読んでいたペーパーを整えながらそれを聞いた一成は、一瞬物憂げな表情をしてからそう言って、座っていて出来た制服の皺をぱん、とはたいて直した。外姿の乱れは心の乱れ。名前と同じく古臭い考えを貫いている彼は、それと裏腹な優雅な顔立ちで女生徒に絶大な人気があったりするが、浮いたウワサは何故か一つもなかったりする。 「うむ。やはり朝は舌が痺れる程の熱湯が良い」 更にペーパーをしまい終えると、そんなことを言いながら番茶を啜るもんだからイマイチ締まらない。先ほども記したとおり柳洞一成は柳洞寺の跡取り息子ということもあって精進の人で、悪く言うならば地味な正確をしており、卒業次第頭を丸めると言って憚らない彼は色恋沙汰にも学生らしい遊びにも手を出さない。それが原因なのかな、と士郎は考えているが、実際のところは大きく違う。 桜との付き合いで男女の付き合いの甘いところを理解ってる士郎は「良いと思う人とか居ないのか?」などとさり気無く聞いてみたりするが、一成は頬を赤らめて「その、なんだな」としどろもどろに呟くだけではっきりとしない。その様子からコレは何かあるな、と流石の鈍感な士郎でも気がつくのだが、それ以上は何を聞いても言っても一成は狼狽を深めるだけなので最近は士郎も諦めている。 ちなみにこの二人のツーショット写真が一部の女子の間で高値で取引されていたりするが、この件とはまったく関係ない話である。 「今日は音楽室だろ。早く行こう」 一成が番茶を飲み終えたところで、士郎が声をかける。その手には既に工具箱が握られいて準備万端であり、その姿と時計を見た一成は「うむ」と頷いて早足に、といっても湯飲みはきちんと片付けてから「ついてきてくれ」と言って生徒会室を出た。
「――文科系の部員は絶えず不遇の扱いだ。今年からは文化系に予算がいくように尽力しているのだが、予算の流れが不鮮明で上手くいってない」 「――おかげで未だ文化系の部室は不遇では。特に冬のストーブ不足に関しては打開策がまるでない」 一成のそんな愚痴を聞きながら、士郎は吹奏楽部の部室を兼ねている音楽室の中でそのストーブの修理をしている。ときたま相槌をうちながらけれど手は休めずに作業をする士郎は、けれど別段一成の愚痴を不快だと思うことはない。いつも気を張っている友人がたまに見せる弱い部分なのだ、寧ろそれをを俺に見せるということは信頼されているということで俺は喜ぶべきだろう。それに愚痴の一つや二つや三つ聞いてやらないで何が親友か。 「そうか。――――あ、一番おっきいマイナスドライバーと導線くれ。これぐらいなら何とかなりそうだ」 士郎に頼まれた一成は工具箱をごそごそと漁るが、如何せんこういったことには疎い。流石にマイナスドライバーは判るしすぐに見つけられたが、導線、と言われても色々と種類があってちんぷんかんぷんだ。 「導線? ……えっと、これか?」 だけれど、すまん、よく判らん。間違っていたら叱ってくれ。と自信なさげに士郎に手渡されたソレはしかし確かに士郎が頼んだ導線だった。生徒会長の肩書きも実績も伊達ではない。生徒会長を務めることと導線の種類、銅線やらエナメル線やらの区別がつくことが関係あるか、と問われれば答えは否であるが。 「いいや、これであってるよ」 言いつつ、ドライバーと導線を受け取った士郎は、作業の手を休めず、けれど先ほどの愚痴の中に少し気になることがあり、続けて一成に尋ねた。 「ストーブ不足、ってことはここ以外にも故障してんのがあるってことか?」 「ある。美術部の暖房器具が怪しいそうだ。他にも怪しいところは数箇所、どころの騒ぎではないがな。新品購入願いの嘆願書は刻一刻と増え続けている」 「けれど予算にそんな余裕はない、と。……ん、やっぱり劣化してるだけだな。中がイカレてなくて助かった」 つまり文化系の倶楽部の待遇はまだまだ不遇が続くってことか。「直りそうか」という一成の問いに、「あぁ、とりあえず配線を新しいのに変えれば今年中は頑張ってくれる」と返しながら、士郎は思わず桜が弓道部で良かった、と思ってしまった自分を恥じた。 「はぁ……これだけは得意なんだけどな、俺」 だが当の士郎本人の気持ちは少し沈む。ストーブのカバーを外しながら溜息を吐く。そう、士郎は魔術に関して全くと言っていいほど才能が無かった。その代わりに物の構造を捉えて設計図を連想することは得意であったが、ソレだけが馬鹿みたいに巧いだけ。ソレも才能といえば才能で、設計図を連想して再現できるほどの士郎であるが、師である切嗣がなんて無駄な才能だ、と嘆き悲しむほどにその才能は意味の無いものだった。 本来、そうやって態々隅々まで構造を把握せずとも、核である中心だけを即座に読み取って誰よりも早く変化させるのが魔術師達の戦いなのだ。だから士郎のように設計図なんてモノを読み取るのは無駄な手間だし、読み取ったところで出来る事といったら魔力の通りやすいところが判る程度の話だね。 士郎は幼き日に父に言われたその言葉にへこみまくった記憶が今も鮮やかに残っている。俺は才能があるのに無いんだ。一週間一ヶ月と悩んで、けれどやっぱりコレも俺に与えられた俺だけの才能なんだ、と開き直ったが、ちょっとした素人知識で直せる範囲のガラクタしか修理できないのではやはり意味が無いような気もしている。 「――――よし終わり。次ぎに行くか」 これでせめて強化も百発百中になればなぁ。 使った導線をしまって、ドライバーとスパナを手に持って立ち上がりながら、士郎はもう一度溜息を吐いた。
「――――っ」 その女生徒の姿を見て士郎は驚いた。その女生徒が一成となにやら話しをしているのを見て更に驚く。学園指定の制服のうえに赤いコートを纏ったスラリとした体躯。さらりと流れる黒髪をツインのテールに決め、つり目がちの眼はけれど剣呑な印象を与えず、可愛い、というよりは綺麗が似合う端正な顔立ち。 「――――」 思わず目を奪われる。果たしてそこに居たのは二年A組の遠坂凛であった。坂の上の洋館に住んでいるというお嬢様で、美人で成績優秀運動神経抜群で成績も良く礼儀正しくもうこれでもかっていうぐらいの優等生。更に美人なことをまったく鼻にかけないとかで男子生徒にすこぶる評判が良く、まさに男の理想だとかいう話だが、それに関しては士郎はあまり興味は無い。そうだ、俺には桜が居る――――って、 (なんか今物凄く恥ずかしいこと考えた気がするぞ……っ!?) 士郎は脳裏に浮かんできた咲き乱れんばかりの笑顔を浮かべる桜の顔を頭を振ってはらい、ウェディングドレスを着た誰かがその誰かをお姫様だっこした赤い髪をした誰かの頬に口付ける、という桜色の空想を頭をスパナで小突いてはらう。 (落ち着け落ち着け落ちつけ落ち着け……) 士郎と一成の会話の様子――特に士郎がウィンクをかますたびに照れたような仕草をする一成――を思い浮かべながら凛がそんなことを考えて音楽室の前の廊下で立ち止まっていると、タッ、と軽くも高いリノリウムの廊下を叩く音が耳朶をうち、続いて今しがた歩き去った士郎に声を掛けられた。
朝に色々ありすぎた所為か、士郎の頭には殆ど授業内容は入ってこない。休み時間になるたび、授業中、士郎はイカンイカンと頬をぴしゃりと叩いたりして渇を入れ、何とか授業に集中しようとするのだが、その効力もあまり長続きせず。昨晩遅くまでストーブ修理をしていて睡眠時間が少なかったのもあり、直ぐにぼうっとしてしまう。 (……イカンなイカンな) ぼうっとしてしまう、というよりは朝から何度妄想したか判らない幸せの春と桜満開、の映像が頭に浮かんできてその世界に浸ってしまう。思わず緩む頬に、何か良いことでもあったのか、衛宮。と声を掛けられること数回だが、勿論本当の事を話せるわけもない。 「い、いや。なんでもないなんでもない……っ!」 ぶんぶんぶん、と手を振って否定。もとい妄想空想を振り払う。 一成にも訝しい視線で見つめられ、先生にも注意され、居心地が非常に悪い。なのにまた直ぐに浸ってしまう己を精神的弱さを恥りつつ、朝のあのニュースが悪いんだ、とちょっと心の中で愚痴ってみる。 そんな士郎の意識をしゃっきりと覚醒させたのは、昼休みを告げる少し長めのチャイムの音だった。 「飯だーっ! 飯の時間だーっ!」 それプラス腹をすかした成長期まっさかりの野獣たちの雄たけびだった。 「ったくよー、田中のヤツちゃんと時間計算して授業しろっての。チャイム鳴ってから終わりの挨拶するまでに二十三秒もかかってるぞ」 空港に降り立ったハリウッドスターに駆け寄るリポーター真っ青のスピードで教室から飛び出て行く者も居れば、ゆっくりと机を寄せ合う女子たちも居る。今すぐ生活指導室まで来い! と放送で呼び出され、何でよりによってこんなときに、と泣きながらとぼとぼ教室から出て行く者も居れば、鞄と机の中を交互に見遣り、わ、忘れた……、と体を真っ白にする者も居る。 「――――」 そんな級友たちの姿を冷ややかな目で流し見つつ、士郎は自分の鞄から弁当箱を包んだ包みを取り出した。一般人が遭遇すれば唖然としてしまうような状況であるが、士郎にしてみればもう慣れも馴れになれたいつものクラスの風景である。 (メシ喰って午後はしっかりしなきゃな) ここで士郎が自分の机で弁当を広げるようなことがあれば、流石に―――唖然どころか下手をすれば生命の危機にかかわるような大変な事態になるのだが、幸いここ最近はそのような事態にはなっていない。 「衛宮、良かったら生徒会室で一緒に――――」 ここで気を抜けばこの飢えた獣たちの糧になるのは言うまでも無い。特に二人が良い仲なことが初めて皆に知れ渡ったときは―――便利屋衛宮士郎と一年生の女子の中でもダントツ一番人気であった間桐桜が―――阿鼻叫喚の大騒ぎだった。ベアナックルレバーナックル羽交い絞めにヘッドロック。飛び交う雑巾筆箱シャーペン恨み言エトセトラ。
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