――――何時の間にか楽しい夢は覚め、僕はそれに気が付かない。
――大切なのは命を懸けることではなく命を惜しむことだよ。 いいかい? 命を懸けるということは、そんなに難しいことじゃないんだ。人は自分が思っているよりもとても簡単などうでもいいようなことで死んでしまう。食中毒とか、お風呂場で足を滑らせて頭を打ったり、赤信号を無視してきた車にはねられたり、雨の日外を歩いていたら雷に打たれたり、ね。 つまり人は意識しないところで毎日命を懸けて生きているんだ。 だからね、大切なのは命を惜しむこと。何があっても、なんとしても、生きること。生きて、大切な人のそばに居る事。一緒に生きていくこと。 ……僕にはそれが出来なかった。だから、士郎には――士郎の大切な人には、同じ想いをさせたくないんだ。あの火災の中で生き残った士郎だからこそ――あ、士郎、もうそろそろおイモ焼けたんじゃない!? 落ち葉の焚き火に向って走っていく父の背中は、いつもより寂しく見えた気がした。
けれど、今なら。 「今なら――分かる気がするな」 今なら、分かる気がする。 士郎は幼き日の情景を思い出しながら、己の腕の中で安らかな寝息を立てている桜の頬をゆっくりと撫でた。顎先にむけて輪郭をなぞる。薄い肌色の上にほんのりと薄桃色の膜が覆っているよう。まるで赤子。すべすべとした肌は、まるで白磁の陶器のようだった。 ――大切な人。 切嗣の言葉が脳裏を過ぎる……いや、その言葉は自然に己の中から湧いて来た。 桜のためなら命を懸けれると想う自分に、桜とともに生きて行きたいと想う自分。その差はきっと僅かなモノで、大切に想う気持ちは同じぐらいに強い。けれど父は後者こそが大事なのだと自分に言った。そしてなぜ父がそんなことを言ったのか、今なら分かる気がする。桜の穏やかで、完全に安心しきった、安堵した――幸福そうな寝顔をじっと見つめていると、分かる気がする。 窓から差し込む日差しは暖かく、鳥のさえずりは遠く、空気は澄んで。数える曜日は土。時刻は五時半で、朝食当番で早起きした士郎はいまだまどろむ意識の中で、そんなことを考えていた。
「はい。何でも美綴先輩のご両親が温泉旅行に出かけるとかで……夜暇だし、夕食を作ってくれる人もいないから、泊まりに来てくれない? っていうことで……。その、美綴先輩の頼みだから断れなくて。急な話でごめんなさい、先輩」 「何で桜が謝る必要があるんだ。良いよ、行って来て。理由はともかく……っつーか美綴のヤツ、一晩くらい自分で飯作れないのか」 朝食時。急にはっとした顔をした桜が切り出した話を聞いて、味噌汁を片手に士郎は溜息を吐いた。美綴のヤツ、武芸百般の豪傑で成績優秀――のくせに家庭科だけは苦手だったなぁ、そういえば。今日の味噌汁は上手く作れたなぁ。我ながら。 「ごめんなさい、先輩」 「だーから、桜は悪くないって。たんと上手い飯食わせてやってきてくれ。俺の方は出前か何かとるから」 一人分だけ作るのも面倒だしな、と士郎が言うと桜はまた申し訳無さそうな顔でごめんなさい、と謝った。それを見た士郎は一瞬だけしまった、という顔をしてから、だから桜は悪くないってば! とわしゃわしゃと桜の頭を撫で回す。 「きゃ……、せ、先輩、やめてください。せっかく綺麗にセットしたのに……!」 「だーめーだー。ごめんなさいばかりいうごめん星人はこうしてやーるー」 いきなり予想もしなかった士郎の行動に桜は肩をぴくん、とさせて驚いたが、すぐに抗議の声をあげる。しかし士郎はそんな桜にお構い無しに扇風機の前に居るような声で喋りながら手を動かし続ける。 わしゃわしゃきゃーきゃー。 わしゃわしゃきゃーきゃー。 「もうすぐにごめんなさいといわないとちーかーえー」 「やん、ぁ――わかりました。わかりましたから、やめてください、先輩!」 嬉しいような嬉しくないような微妙な気分の中、先輩の手ってやっぱり大きい、とか考えていた桜だが、流石にそろそろやめてもらわないと髪の毛の方が酷いことになりそうだった。言って、ちょっとどきどきしながら士郎の手を掴んでひっぺがす。 「そーれーでーよーろーしーいー」 手をはがされた士郎は、かれこれ三分間。少しでやめるつもりが中々どうして癖になりそう。そんなことを考えながら、最後にそういったあと、悪い悪いと平謝りをして自分の座布団に腰を下ろした。 「あぁん、もう……ひどいです、先輩」 手ぐしでぼさぼさになってしまった髪の毛を一所懸命に整えながら、桜はいかにもわたし、怒ってますよぅ、という風にぷくーっと頬を膨らませてみせた。上目遣いに士郎を睨む。 「く――」 だが、ぷりぷりという擬音が聞こえてきそうなそれに、士郎は思わず吹き出してしまう。 「ちょっと、先輩。何笑ってるんですか」 「はは――いや、悪い。何だか桜がリスみたいで可愛かったからさ、つい」 「かっ――!?」 可愛い。かわいい。だれが? ……桜。さくらが可愛い。つまり、先輩はわたしが、かわいいんだ。 「〜〜〜っ!」 士郎にしてみれば別段意識して言ったわけではなかったのだが、面とむかって――しかも不意打ちで笑いながらそんなことを言われた桜はぼひゅん、という音が聞こえてきそうな勢いで首筋から耳、顔を朱色に染める。 「さくら……?」 見ているほうが気の毒だ。ぷしゅう、と音がするその姿は茹蛸や完熟トマトもかくや。士郎は顔を伏せて縮こまってしまった桜に声をかけるが、桜は「やっぱり先輩はずるいです。いつもさらりとそんなこと言うんだから。この前だって……」ブツブツ何事かを呟くばかり。 その様子を不審に思った士郎が「熱でもあるんじゃないか」と額を額にくっつけて――色々と大変なことになって、結局登校がいつもより三十分ほど遅れてしまったのは、また別のお話。 いつもより三十分遅れた登校。早足で歩いていた士郎は、けれどいつもの交差点に通りかかったところで足を止めた。 「どうしたんですか、先輩?」 「いや……あれ、何かあったのかなと思って」 少し遅れてやってきた桜が足を止めて怪訝な顔で尋ねると、士郎は交差点から近い一軒の家を指差した。 「パトカー……と、おまわりさんみたいですね」 士郎の指差した家の前には、桜の言葉のとおり数台のパトカーが止まっていた。何か事件があったのだろう。十名以上の警官が立ち入り禁止を示すロープの中で忙しなく動きまわっている。その周りには野次馬らしき人物も大勢居て、爽やかな朝に反してその一角だけが物々しい雰囲気に包まれていた。 「――――」 士郎は動きまわる警官たちを眺めながら、考えた。 「先輩、行きましょう」 士郎の顔が強張っていく様を見て、不安になった桜が声をかける。早くこの場所から離れたい。学園に遅れてしまう……それよりも、士郎の恐い顔をこれ以上見ていたくない。こういう顔をしているときの士郎は、どこか危ういところがある。それを知っているから、桜は余計にここに居たくなかった。 「……ああ。そうだな。悪かった」 士郎は心に引っ掛かるものを感じながらも、返事をして歩き出した。……たとえ強盗殺人事件があったとしても、自分にはどうすることも出来ない。下手にクビを突っ込んでも怪我をするのは自分の方だ。警察にも、付近の住人にも、何より桜に迷惑がかかる。 「桜。美綴の家に行くときは――」 「はい。分かってます。明るいうちに先輩と二人で行きますね」 「……うん。そう、そうしてくれ」 こうやって、桜が危険な目に遭わないように注意してやるくらい。 ……いっそのこと美綴に頼んで泊まりに行くのを無しにしてもらおうか。 あいつのことだから、言えば分かってくれるだろう。 もしそうなったとしても、何かされる――殺されることなんて……いや、それも、ゼロじゃない。 こんなことを考え出したらきりが無いけれど、士郎は芽生えた不安な気持ちを拭い去ることが出来なかった。その気持ちを少しでも抑えたくて、士郎は隣を歩く桜の手に自分の手を絡めた。ぎゅっと力を入れる。 「っ、先輩?」 驚いた桜が足を止めて隣を見る。士郎は同じように足を止め、桜の顔を暫く見つめてから、口を開いた。 「昼から弓道部の練習があるだろ」 「……? はい。それがどうかしたんですか」 「昼飯は弓道場で食べるだろ」 「はい……そうですね」 「練習が終わったら、そのまま美綴の家に行くだろ。そうすると、学園に着いて別れて、次に会うのは明日の夜になるだろ。 「――――」 もう片方の手で頭をぽりぽりとかきながら言った士郎の顔を、今度は桜が暫く見つめた。自然、視線が交じり合う形になる。今日の朝食どきまでは気恥ずかしかったそれが、今はちっとも恥かしくなかった。 ――――いいえ、恥ずかしくなんかないです。 嬉しいです。心の中でそう呟いてから、桜は士郎の問いに答えるかわりに自分の手にもぎゅっと力を篭めた。 「…………」 「…………」 歩みは、酷くゆっくりしたものだった。学園に着くまでその速度は変わらない。
「それじゃあな。部活、頑張れよ。気をつけてな」 「はい。ありがとうございます。先輩も」 それからというもの、道中二人の間に会話は無かったし、朝練には遅れてしまった。けれど、二人にそれを悔やむ気持ちは微塵も無かった。言葉にせずとも、伝わる気持ちはある。
「――――だ、大胆ね」 昨夜色々あって登校するのが遅れてしまった凛は、朝っぱらか凄いものを見たと思わず目を見開いた。僅かに頬が赤い。 朝の学園の脱靴場の真中。 大勢の生徒の叫び声やら驚愕の表情やら喧々諤々の騒ぎの中心に、一目を憚らず想い人と口付けを交わす己の妹が居た。 同級生たちに散々からかわれたり頭を叩かれたりしながら、士郎は漸く教室にたどり着いた。おはよう。近くの級友に挨拶しながら、道中のことを思い出す。 「――何なんだよ、もう」 額に浮かんだ汗を拭いながら、士郎は呟いた。男なのにおばさん口調なのが何故かとても恐かった。道中何度命の危険を感じたか分からない。 「はぁ」 力ない足取りで歩き、机に鞄を下ろして溜息をつく。こりゃ、帰り道は気をつけないとな、と未だ廊下から憎悪たっぷりの視線を送ってくる輩を見遣りながら士郎は思った。般若の形相を浮かべている輩を見ると、今更ながら自分がとんでもない事をしたような気分になってくる。後悔はしていないが、やはり人気の無いところでした方が良かっただろうか? いや、もう過ぎたことが。後悔していないんだがら、気にしてもしょうがない。 「うしっ」 気を取り直して、頬を叩く。ぴんしゃんと良い音がした。鞄を机の横にかけ、椅子に座る。と、そこで士郎は隣の席で浮かない顔をしている一成に気がついた。瞑目し、腕組みをしてうんうん唸っている。どうやら先ほどの件については知らないようだ。良かった……じゃなくて、何かあったのだろうか。 「一成、うんうん唸ってるけど、どうかしたのか?」 声をかける。士郎の声を聞いて、一成は目を開けた。おはよう。と挨拶をしてから、口を開く。 「いや、大したことでは無いんだが……実はな、今朝方ウチの洗濯機が壊れてしまってな」 「そりゃ大したことだろう。一成のとこは大所帯だからな。洗濯物の量もハンパじゃないだろ?」 「そうだ。それが問題なんだ。業者に修理を頼もうにも一日二日では直らない。その間あの量を手洗いするのかと思うと気が滅入ってな。こうして何か良い案は無いものかと頭を捻っていたところだ」 一成の言葉を聞いて、士郎はふむ、と頷いた。 「なるほど。それは確かに気が滅入る。コインランドリーなんかは金がかかるし、お前の親父さんなら「これも修行の一環だ」とか言ってコレを機にずっと洗濯は手洗いですることになったりしそうだもんな」 「あぁ、それが一番の問題だ。今朝も必死で洗濯をしている俺たちを見て感心していらっしゃったからな」 言って、一成は溜息を吐く。それを見て士郎は珍しいな、と思った。人前では弱いところ、溜息を吐いたり愚痴をこぼしたりなどをあまり見せないのが柳洞一成という男だったからだ。士郎はたかが洗濯ぐらいで此処まで考え込まなくても、と思っていた自分の考えを改めた。一成にしてみれば自分が思っていたより大変で重要な問題らしい。確かに、何十人分もの洗濯物を手で洗うのは途方も無い作業だ。何人かで分担してやればそんなに大変じゃ無いんじゃないかとも思うが、ここは友人として一肌脱ごう。 「なぁ、一成。その洗濯機、ちょっと俺に見せてもらえないか? もしかしたら何とか面倒み見れるかもしれないし」 「そう言ってもらえると嬉しいが……学園の備品ならともかく、俺の家のものまで衛宮に見てもらうのは流石に悪い。親父殿が何と言うか分からないが、精々一週間かそこら我慢すれば戻ってくるのだからな」 「言うなって。友達だろう? 俺たち。持ちつ持たれつだって。気にするな。完治はさせられないかもしれないけど、応急処置くらいは出来るつもりだぞ」 言葉とは裏腹に、士郎には少しだが自信があった。以前、自宅の洗濯機の調子が悪くなったこともあったのが、比較的簡単に直すことが出来たからだ。その時解析したおかげで、基本的な洗濯機の構造は設計図が書けるほどに頭に入ってる。それに、大抵家電製品の故障は接触不良とか直すのが容易なものが多い。今回も多分それだろう。 「で、具体的にどういう感じの故障なんだ?」 士郎は「え、衛宮……お前ってヤツは」とやたらめったら感動している一成に声をかける。一成は士郎の言葉を聞いて、はっとした表情をして「こほん」と一つ咳払いをした。記憶を辿りなら、ゆっくりと喋る。 「確か……母上殿の話だとスイッチを押しても電源が入らないということだったな」 やっぱりな。士郎はぽん、と手を叩いた。大体そういうのは接触不良が原因だ。 「なるほど。オーケイ。多分それなら業者に頼まなくても俺でも何とかなるよ」 「そ、そうか? うむ。それなら世話になる。この恩は一生忘れないぞ、衛宮」 「はは。あんまり期待されると困るけどな。実際見てみないと分からないから直せると決まったわけじゃないし」 「いや。謙遜するな。衛宮なら直せる。俺が保証しよう」 「……何か言ってることおかしくないか? まぁいいか。それじゃあ昼飯食ってから行くから一成は家で待っててくれ。工具も持っていくから――」 「――みんなー、おっはよーっ!」 士郎の言葉尻を遮るように、大河がばたばたと慌しく教室に入ってきた。士郎と一成は椅子に座りなおして姿勢を正す。大河は今日はチャイムより早く来たわよー! と嬉しそうに笑いながら、教卓の上に出席簿を置いた。 「今日は早いな、藤村先生」 「そうだな。珍しいこともあるものだ」 士郎と一成以外の生徒も同じ感想を持ったようで、教室内は軽い喧騒に包まれていた。皆口々に口調は丁寧だが、大河をからかったりしていた。大河は「なによう、私が時間通りに来たのがそんなに珍しい?」と言って、ぷりぷりと頬を膨らませている。 そして誰かが「はーい。大河センセーが時間どおりに来るなんてとっても珍しいでーす」と言ったところで、チャイムが鳴った。大河は「大河」と呼ばれたことも気にせずに、晴れ晴れとした表情でその機会音に聞きいった。時間にすれば数十秒の差だったが、大河にしてみればそんなもの関係ないのだろう。時間通りに来たという結果の方が大事だ、という気持ちが表情から伝わってくる。 そんな大河の姿を見て、士郎はふと嫌な予感に襲われた。 「本当に、今日は珍しいことばっかりだ」 そう。珍しい。本当に。一成が溜息をついたり、藤ねぇが時間通りに来たり、今日は何かと珍しいことが続く。今朝の事件のこともあったし、こんなことを言ったら二人に失礼だけど、何か今日は嫌な感じがする。普段は滅多に起きないようなことが、起こりそうな予感がする。 桜に何もなければ良いけれど……。 嫌な予感ほど良く当たる。その言葉を頭から追い出すように、士郎は仄かに桜の暖かさが残る唇に手をやりながら、心の中で呟いた。
「おーい、さくらー?」 「――」 「おーい、さくらってばー?」 「――」 「何ボーっとしてるのよー?」 「――せんぱぁい」 「……ダメだこりゃ」 はぅ、と悩ましげな吐息を吐き出した桜を見て、級友は両手を広げ、首を振りながら溜息を吐いた。こっちの姿も声も何も入ってやしない。友達より男なのね。やってられるか。けっ。のろけかよ。チッ。今朝も下駄箱でなにやら良いことしてたようで羨ましいかぎりですわー! きぃーっ! 先生に注意されても知らないんだから! ばか! 「――はぁ」 そんな級友を他所に、桜は唇に手を遣った。暖かい。自分の体温とは違う、暖かさ。優しい、包み込まれるような感覚に、桜は酔った。あんな人前で恥ずかしい筈なのに、全然そんなことなかった。 士郎の不安と心配とは裏腹に、桜は幸せだった。
「――キキ」 ――だから、教室の隅で一匹の蟲が蠢いていることに、桜は気がつかなかった。ギチギチと気味の悪い音をあげる蟲。その音は意味を成さぬはずなのに、何故か笑ったような響きがあった。 いや、何故かということはない。 事実、蟲は笑っていた。やっと見つけた、と哂っていた。やっと戻ってきたと、やっと始まる、と嗤っていた。 お前はボクの―― お前はワシの―― ――モノだと、嗤っていた。 「キキキキキキキキキキッ――――!」 もう、逃さない。
continues. |