ぼやけた視界が明瞭になると、目の前にあったのは見慣れた天井だった。

「――ん」

 頭がぼんやりとしているのは睡眠時間が足りないせいか。
 まどろむ意識は覚醒することを拒否している。
 あと五分。そんな言葉が頭の中で木霊した
 だが、だからといってこのままじっといるわけにもいかない。
 そろそろ朝食の用意をしないといけない時間のはずだ。

「よっと――」

 土蔵の天井には、染みやら汚れやらが目立つ。
 見つめながら、またか。
 心の中でそう呟いて、起き上がる。
 床にたまっていた埃が舞い上がった。
 古びた土蔵の窓はきちんと閉まりきっておらず、その隙間から差し込んでいる光に乱反射してキラキラと光る。
 綺麗だな。
 そんなことを思いながら、俺はまた土蔵で眠ってしまったのはどうしてだったか、と頭を捻った。

「確か……」

 昨夜はビデオデッキの修理をしていたはずだ。
 証拠に、足元には分解されたビデオデッキを構成するらしき部品たちが転がっている。
 修理は終わってない。
 ……ということは修理の途中で力尽きた、ということか。

「……」

 何となくばつが悪くなって、側頭部をぽりぽりと掻く。
 ガラクタの修理を終えたり、魔術の鍛錬が終わったあと母屋に戻るのはおっくうでそのまま土蔵で寝ることは別段珍しいことじゃない。
 だがその途中で眠ってしまう、という事態は久しぶりだった。
 おそらく昨日バイトで張り切りすぎた所為だろう。
 閉店間際に団体が入ってかなり延長したから仕方がないと言えば仕方がないのだが――

「あ……」

 何とタイミングが悪いことか。
 仕方がないでは済ましてくれそうにない人がやって来た。

「――」

 ぎぃぃ、と耳触りがあまり良くない音がした。
 古い、たてつけが悪くて蝶番も錆びて、無暗に重い、扉が開く音。
 それと同時に土蔵の中に入り込んでくる冬の外気と、光。
 そして、近づいてくる足音と、人の気配。

「……おはようございます、先輩」

 その足音の主にたいして、恐る恐る挨拶をする。
 だが、俺の予想とはうらはらに。

「――はい。おはようございます、士郎君」

 つなぎ姿の俺を見て桜先輩は特に何も言わず、ただおかしそうに笑って頷いた。

「――」

 その姿を見てほっとする。
 何かと心配性というか細かい先輩のことだから、またいつものようにやんわりと、だがキツくお叱りの言葉の一つでも貰うものだと思っていた。
 どうやら先輩もこんなことには慣れているらしい。

「いつも朝は早いのに今日はお寝坊さんなんですね」

 ……?
 怒られる、どころか何が嬉しいのか。
 先輩はどことなくいつもより元気がある。機嫌も良いみたいだ。
 髪の毛をかきあげならふわりと微笑んだその姿は――

「――」 

 まぁ、なんと言うか、おきぬけの頭を覚醒させるにはこれ以上ない良薬になった。
 っていうか何で今起きたばかりってことがバレてるんだろうか。

「……そうですか。結構寝坊してますよ、俺。
 よく先輩に起こしてもらってますし――まぁ、たまに大河に叩き起こされたりもしますけど。……えぇと、これに懲りずに次は頑張ります」

 ……うん。
 自分でも何を言っているのかさっぱり理解不能だ。
 どうも先輩と面と向って喋るのは苦手だ。
 照れる。
 ……こちらが一方的に。

「はい、わかりました。
 でも頑張ってくれない方が嬉しいかも、わたし」

 先輩はそんな俺が可笑しかったのかクスクスと笑っている。
 まともな台詞を口にしなかったのが思わぬ幸運だった。
 こんな先輩はあまり見れない。
 年がら年中大騒ぎの大河とは違って先輩は繊細なお人なのである。
 ……って。そろそろそのトラが飢える獣に変身するような時間ではないだろうか。

「――ちょっと待ってください。いま起きますから」

 起きる。というよりはほわわんとして緩みまくりの頭を切り替える。
 大きく二度、三度深呼吸。
 冬の冷たい空気はこういうときに役に立つ。
 寒気は思考を容赦なくビシバシと叩くいてくれた。


 ……目の前には間桐桜先輩が居る。


 桜先輩。
 間桐桜。
 
 俺が一年のときの弓道部の主将で、弟の間桐慎二と友達ということもあって何かと俺の面倒を見てくれた。
 俺がとある事故の所為で怪我を負ったとき、その怪我が治るまで、ということで家事を手伝いに来てくれ、それが何故か怪我が治り、さらにちょっとした理由で俺が弓道部を辞めることになってもそれは続いて現在に至る。
 はじめのうちはどうして、と気になったものだが、何時の間にか先輩が居るのが我が家の日常になっていて。
 逆に先輩が用事で来れない日などがあると妙に寂しく、またそんな日の方が珍しくなっていた。

 つまり、先輩は俺の家族ってわけだ。

 冬木短大の家政科に通う先輩は家事全般が上手で得意。
 美人で性格も良くて、おしとやかで本当に女性の鏡みたいな人だ。
 そんな先輩と仲が良いくせにこちらはまったく女らしいとは無縁のトラ娘には大いに見習ってもらいたいもんである。


 ……ここは家の土蔵で、そろそろ大河がやって来るんじゃないか、と危惧した時刻まではは余裕がある午前六時を僅かにまわろうかというところ。


「……士郎君?」
「あ――目、覚めました。
 それよりすいません。朝の支度、手伝わないといけないのに」
「そんなのいいんですよ。
 士郎君、昨夜も遅かったんでしょう? だったら朝はゆっくりしてて。朝食の支度は私がしておくから」
 
 弾むような声で先輩が言う。
 
 ……珍しい。
 本当に今朝の先輩が元気があって嬉しそうだ。
 ここはその機嫌を損ねないように朝食の用意はお言葉に甘えて――というわけにはいかない。

「そういう訳にはいかないです。すぐ用意しますから、一緒にキッチンに行きましょう」

 言って、てきぱきてと工具やらを片付けていく。
 このあたりは熟れたもんだ。
 どこに何がおいてあれば一番整理しやすいとか使うときに取りやすいとか位置が把握しやすいなどは百も承知である。
 分解したビデオデッキは――部品が無くならないようにとりあえず毛布のうえにまとめてくるんでおこう。

「……よし、準備完了。
 それじゃ行きましょう、先輩」
「あ……うーん、士郎君」
「? えぇと、他に何かありますか」
「あのね、そういうコトじゃないんだけど……その、士郎君。家に戻る前に着替えた方が良いと思うな」
「―――あ」

 言われて、自分の格好を見下ろした。

「――」

 ……なんてこった。
 起きたときは気が付いてたのに先輩と喋ってるうちにすっかり忘れてた。
 作業着であるツナギは所々油やらいろんなもので汚れていて、こんな格好で家に入ったら大変だ。
 それこそ大河に馬鹿にされて汚い汚い怒られるだろう……というか衛生的によろしくない。

「……すいません。
 まだしっかり目が覚めてないみたいで。なんか普段に増して抜けてますね、俺」

 今度こそ本格的にバツが悪い。
 さらに恥ずかしい。
 頭をぽりぽり掻く。
 と、情けない顔をしていたんだろう。
 俺を見て先輩はくす、と微笑んだ。

「ええ、そうかもしれませんね。
 だから直食の支度はわたしに任せて、士郎君はもう少しゆっくりしていること」

 いいわね? と、おでこをちょこんとこ突かれた。

「――っ!」

 不意打ちに鼓動が跳ねる。今のは反則だ。
 けど先輩の手冷たい……じゃなくてなんだか子供扱いされたような気もする。
 いや、されてる。完璧に。

「――」

 顔が熱い。
 先輩は昔からこうだ。
 何かと俺のことを子供扱いするというか、お姉さん然とするというか。
 いや、実際先輩は俺の姉さんといっても過言ではない関係なんだけども、……不本意だ。
 不本意だけれど、この人に敵わないことは明白なのでここは大人しく言うとおりにしよう。
 凄く嬉しそうで機嫌良いみたいだし。

「……わかりました。
 それじゃ着替えてから行きますから、先輩は先に戻っててください」
「はい。じゃあ待ってるね、士郎君」

 言い終わって、先輩は早足で立ち去っていった。

「――」
 
 後姿を見つめる。
 少し紫がかった髪の毛が朝日を受けて煌びやかに、先輩の歩み合わせてサラサラと流るる。
 どことなくその足取りが軽いのは気のせい……じゃないはずだ。うん。 

「何となく――」

 今日は良い日になりそうだな。
 そんな予感を胸に、俺は制服を手に取った。




>