武家屋敷よろしくだだっ広い庭を抜けて、縁側から屋敷へと入る。
 途端、食欲をそそられるいい匂いが鼻をついた。
 ……うぉ。
 あまりの美味そうな薫りに急激に腹が減ってきた。
 先輩、朝から力入ってるな……。期待大、だけど何だかすこし申し訳ない。ここまでのモノを一人で用意するのは流石に大変ではないだろうか。

「――先輩、やっぱり何か」

 言いながら、キッチンへと向う。早く食べたい、という気持ちが無かったと言えば嘘になるが、今はとりあえずは無視だ。

「手伝いましょうか――」

 が、心配とは裏腹に、期待には案の定で時すでに遅し。
 朝食はもう出来上がっているようだ。
 先輩らしい、上品で……かつ今日は少し豪勢な朝餉が配膳台に並んでいる。先輩は調理を終えて、あとは居間のテーブルに並べるだけと食器棚を覗いていた。

「面目ないです。せめて食器の用意ぐらいはしますんで、先輩は座っててください」
「え……? あ、もう来ちゃったの、士郎君?」

 もう少しゆっくりしててくれたら良いのに、と先輩。
 その優しさは嬉しいのだが、時計を見ればもう六時二十分だ。もう、どころかこれじゃ遅すぎる。

「もうじゃないです。六時二十分て言えばいつも朝飯を食ってる時間じゃないですか」
「でも士郎君は部活をしてないから、この時間だったら十分だと思うけど……」
「いえ、そういう問題じゃなくて。それを言うなら先輩だって講義とかバイトとか色々あるでしょうに」

 ん――、と口元に手を当てて少し困ったような表情をする先輩。

「それはそうだけど……、これは私が好きでやってることだから士郎君には気にしなくてもいいのに」
「ええ、それは何度も聞いたんですけれど……、だから俺もいつも早起きしてますし。先輩が来てくれるんだからその時間には起きてないと失礼だと思って」
 
 早起き、というのは先輩が家に来て朝食の支度をしてくれる前に起きて、俺が先に支度を開始することで、寝坊、っていうのは今朝みたいに先輩に朝食の支度を任せきりになってしまうこと。
 もっとも、それも一年前からの習慣にすぎないし、それにどういう事なのか今朝のように先輩は俺が寝坊したときの方が機嫌が良い。すこぶる良い。
 一人で三人分も朝食を作り、弁当を二つ作る。そうなると先輩は年頃の女性で色々とすることもあるだろうから、おそらく五時には起きていないといけない。自宅の方の仕事もしないといけないし、凄く大変なはずなのに文句の一つどころか嫌な顔一つしない。
 それどころか何度も言うように無茶苦茶機嫌が良いのだ。
 
 ……改めて考えてみるとやはり不思議だ。前々から気になってたし、今日は思い切って聞いてみようかな……?

「……あの、先輩?」
「ん。なぁに? 士郎君」

 俺と話をしている間も手を休めずテキパキと棚から器を取り出していた先輩は、俺の少しトーンの落ちた声を聞いて―――というか、器を用意し終えたらしく手を止めてこちらに向き直った。
 ふわりと薫る良い香り。ほわほわとした笑顔に、清潔な白のリブ・ワンピの上に薄桃色のエプロンが先輩にとても似合って……じゃなくて、

「あ、あの……先輩って大変なはずなのに、俺が寝坊したときの方が機嫌よくないですか?」
「へ?」

 ぽかんとした表情を浮かべる先輩。
 う……もしかして俺、とんでもなくおかしなことを聞いてしまったのだろうか。
 先輩は口元に手をあててうーん、と唸る。

「……うーん。そうなの、かな。そんなに機嫌良いのかな、わたし」
「はい。俺からはそう見えますけれど」
「そう……かも。うん。そうね。士郎君が寝坊してくれた方が嬉しいかな、わたし」

 しかし俺の不安とは裏腹に、先輩自身も思うところがあったのかそう言ってくすりと微笑んだ。

「そ、それで、いったい何でなんですか?」

 いよいよ核心に触れる。
 だが、先輩は顔に微笑を湛えたまま、しかし口を開くことを躊躇った。

「……先輩? すいません。もしかして言いにくいことなんですか?」

 

「いや、あの、あ―――う、と、ともかく後は並べるだけなんですからそれくらい俺にやらせてください……!」

 疑問はとりあえずおいておき、言って、強引に盛り付けを開始しようとする。
 だが、先輩は俺をやんわりと手で制止すると、くすりと小さく微笑んだ。

「だーめ。私がします。それに士郎君はおうちの主人なんなから、朝ぐらいはどーんと構えていればいいの」
「どーん、とって……先輩一人に働かせてのんびりしてる主人なんて家主失格じゃないですか。頼みますから先輩は居間で待っててくださいよ」
「失格してもいいじゃない。それにわたし、亭主関白って結構素敵だな、って思ってたの」




 ちなみに藤トラ。藤村大河。
 俺の一年後輩で、一年生ながら剣道部のエース。俺が親父に引き取られてここにやって来たときからの腐れ縁で、まっことに遺憾だが所謂幼馴染というやつになる。
 喰うことと遊ぶことと剣道のことしか考えていないんじゃないか、ってなぐらいに能天気というか陽気というか騒がしいヤツでいつもハイテンション。ことあるごとに俺を困らそうとイタズラやら何やらでちょっかいをかけてくるとんでもない野郎。家事もせず、というか出来ずに毎朝毎晩我が家に俺か先輩のメシをかっ喰らいに来る。実家が藤村組というこのあたりじゃちょっとした有名なヤのつく職業なので金持ちのはずなのに。
 ……と、何だかぼろくそな紹介だけれど、こいつも俺の家族の一員だ。何だかんだ言って一緒に居れば退屈しないし、明るいし、楽しいのだ。あいつの「しーろーう、あさごはーん!」という叫びを聞かないと一日が始まった感じがしないし。