「え?」
 おかしいな。昨晩寝る前に耳掃除をしたはずだが。
 少々行儀が悪いが指でほじくってみる。耳クソ無し。うむ、だとすれば病気だろうか。
 難聴……とはちょっと違うか。タモリ的空耳病とかそういうの。
「違う」
 長門はぐっと俺の手首をつかみ、ずずいと顔を近づけて、
「貴方はいたって健康」
「そ、そいつはよかった」
「もう一度言う。パンツが上手く履けない。手伝って」
「……あー」
 いたって真面目な表情で「現実ですよ」とおっしゃる。
 ……ようし、オーケイ。認めよう。
 宇宙人や未来人や超能力者が闊歩しているような世の中だ。
 統合思念なんちゃら製情報万能少女が下着を上手に装着することができないから助力を請う――なんてことがあっても、 
「やっぱおかしいだろ」
 頭を振る。悪い夢なんじゃねえだろうか。
 パンツが履けない? 保育園児じゃあるまいし、高校生にもなって何を言っとるんだこいつは。
 もしも俺をからかってるんだったらもう帰るぞ。あほらしい。
「……」
 二人きりの部屋。一人で住むには広いマンションのリビング。
 テーブルに向かい合って座り、若干非難の色を視線に含ませると、長門はふるふると首を横に振り、
「信じて。日常生活を営むためのメインルーチンに極微細な欠損が生じた」
「その所為でパンツが上手に履けないと?」
「そう」
 冬の湖面に発生する薄霧のような……寂しさを纏って、澄んだ水の瞳で俺を見つめる。
 どうしてだろう。こんなこと言えるのは貴方だけ、と、言外にそう告白されているような感じ。
 ……長門が法螺をふいたり俺をバカにしたりするだろうか?
 いや、そんなことはありえないだろう。俺の思い上がりじゃなく、長門有希という少女の有り方として。
「分かったよ」
 嘆息して肩を竦める。
 分かった。台詞どおりだ。いい加減認めるし、信じようじゃないか。
 パンツが上手に履けない宇宙人なんて百回輪廻転生しても会えるかどうかだ。
 そんな具合に俺はもうこの妙ちくりんなヘルプを受け入れる心の準備万端であるというのに、
「証明する」
「何?」
「パンツが上手く履けないことを実践する。これを見たら貴方も、」
「いやいや! いいって!」
 年頃の女の子が下着を身に着ける場面なんぞに居合わせられるわけがない。
 だがしかし、腰を浮かせていざ暴挙を止めんと慌てる俺の目の前で、
 長門はカーディガンのポケットからやおらパンツを――非常にこいつらしい飾り気なしのシンプルな白を取り出すと、
「……っ」
 がばちょと立ち上がった。気炎が噴出しそうな勢いだった。
 長門はパンツを両の手で持ち広げる。次いで右足を上げるとそのまま穴に通さんと、
「あっ」
 するのだが、足はパンツの真横の空を切った。
 ぺたん。
「……」
「い、いや、そんな目で見つめられてもだな……」
 わざとやった風には見えない。
 まるで反発し合う磁石か油と水のように、長門の足は見事にパンツを嫌っていた。
 ――というか。
 前かがみの体勢で両手で白のパンツを持ち、子犬みたいな上目遣いで俺を見る長門。
 そんな姿に、今更ながらとある疑問が浮かんでくる。
「なぁ、長門?」
「?」
「……聞きずらいんだけどさ、お前、パンツが履けないってことは、その」
 流石に直に尋ねるのは恥ずかしい。
 妄想するだけで止めておけばよかったと思いつつ、俺の視線は長門のパンツに釘付けであり、
 そんなもん見てしまっては興奮して脳に憎たらしい成分が分泌されるのも確かで、
「……今、ノーパンなのか?」
 言っちまった。
 はい、変態。さようなら、清く正しい俺。
 まるで仕事は終わったとばかりに急激に妙な分泌成分は消え、脳は冷えていく。
 9ミリだ。誰か9ミリパラを俺の胸に二発頭に一発ぶちこんでくれ。
「ノーパンとは何かの略語、もしくは隠語の類?」
「追い討ちかけんでくれ。……ノー、パンツ。パンツ履いてないってことだよ」
 どうせ死ぬのだ。そういう健康法もあるんだぜとむなしく笑う。
 長門はそんな俺を見て若干目を見開いて、
「……有機生命体の体調管理方法は非常にユニーク」
「俺もそう思う」
 そう思ったところで、そろそろお暇しようかな。
 9ミリパラは冗談としても、これ以上長門の前に居たら男として最底辺に落下しそうである。
 すまんな。他の頼みなら何でも聞いてやりたいが、パンツ問題だけは俺は力になれそうにない。
「……」
「だからそんな目で見ないでくれ……」
 何もしていないのに。まだギリセーフなはずなのに。
 だが何もしていないのが問題なんだと長門は細やかに睫を震わせて、
「私を構成する情報はパンツが上手く履けない事意外は問題ない。体調管理をする必要はない」
「……」
「パンツを履いていないと……そう、しっくりこない。違和感がある」
「……」
「風が股間部分に当たる度に、」
「分かった! 分かったから!」
 頼む。それ以上言わないでくれ。毒を食らわば皿まで。観念した。
 観念するから、もう羞恥プレイは止めてくれ。
 いたいけな幼女をいたぶる鬼畜になった気分になってしまう。
「……で、具体的に俺は何をすればいいんだ?」
「私の変わりに下着を持ち、それを履かせて欲しい」
 そういって長門はあまりにも無造作にそいつを俺に差し出した。
 倫理とか理性とか常識とかをアルファケンタウリの彼方に吹き飛ばし、丁重に受け取る。
「……」
 見る。そりゃ見てしまう。パンツ。長門のパンツ。パンティ。ショーツ。
 下着だけあって肌触りが良い。若干あったかいのは何かの冗談だろうか。
「はぁ」
 溜息を吐きながら、腰骨に当たる部分を両手で持つ。
 形は洗濯物の山でたまに見る妹のそいつと同じだ。
 だからといってそれが何のアドバンテージになるというわけでもないが、
 長門も妹みたいなもんだと呪文を繰り返すことによって精神衛生は守られ――
「……きて」
 ――待ちたまえ。その台詞と表情はNGだ。リテイクの必要がある。
 そんな一子纏わぬ姿でベッドの淵に腰掛け、恋人にささやくような言葉じゃなく、
 満員電車で痴漢にあってしまった内気な女子中学生みたいな表情じゃなく、
 もっと何時ものお前みたいに無表情に無感情にたんたんとやってくれ。
 そうしれくれないと「何故脱いでいるのに履かせないといけないんだ?」などと脳のアホな部分が考えやがる。
「わたしは平常通りにしている」
「……マジか?」
「肯定する」
 つまりなんだ。
 流石の長門も男にパンツ履かせてもらうなんて事は、素で恥ずかしいと。
「さっきの妄言は忘れてくれ……」
 穴が無かったら掘ってでも入りたい気分だ。
 あたり前じゃねえか。
 長門をなんだと思っていたんだ俺は。
 女の子なんだぞ。そりゃ恥ずかしいに決まってる。履かせてもらうのも、そもそもこんな事を打ち明けるのも。
 それを俺ときたら自分の精神衛生がなんだかんだと注文をつけて、
 そんな事を言う暇があればさっさとやるべき事をやれば良いんだ。
「じゃ、行くぞ?」
「……」
 ふわりと頷く華奢な体のまん前に膝立ちになる。目と鼻の先には長門の腰とスカート。
 服の匂いではなく、長門の匂いがする。後頭部に視線が刺さってる。息遣いまで聞こえてくる。
 ――さぁ、心を無にしよう。
「……っと」
 頭の中に手順を描きながら、下着を地面に這わせるように長門の足に近づけていく。
 えっと、次は足をあげてもらってまず片方を通す、と。
「長門、すこし右足上げてくれ」
「了解した」
 素直に上がる右足。膝が俺に衝突しないように気を使ってくれているのは嬉しいが、
 やはり眼前の薄い布一枚向こうには生まれたままの姿の長門の大事な所があると思うと――
「考えるな考えるな考えるな!」
「どうかした?」
「なんでもねえ!」
 ぽんこつ目玉の視線を長門の足に集中させる。
 一点の穢れもない白皙の脚にそれはそれで赴きが違った劣情が沸いても良さそうなもんだが、
 沸いてくるたびに「なんでもねえ!」と叫んで右足を通すことに成功した。
 似たような行程を経て左足も同じく。
「ふぅ」
 ……疲れた。脱がすことにあこがれる男子諸氏は多々いるが、
 逆を所望すると公言するヤツが居ないのはきっと今の俺の気分と気持ちを知っているからに違いない。
 そんなバカなことを考えるくらいには落ち着いた。
 なんたって長門は一人では足を通すことさえ出来なかったのだから、これは大いなる一歩だ。
 そしてゴールまでの障害は歩くどころかはいはいでさえ楽勝なものしか残ってない。
 このままパンツを腰まで引き上げれば良いだけだ。
「それくらいなら自分で出来るんじゃないか?」
「……不明。しかしおそらく不可能」
「そ、そうか?」
 足を通すことに比べたら微分と足し算くらいに難度の差があると思うが、
 ま、長門もこう言っているんだし乗りかかった船だし、簡単だし、俺がやってやろう。
「んじゃ、このままいくぞ」
 長門が頷いたのを気配で察知してから、指に足が触れないようにぐいっと広げ、するすると上っていく。
 ソックスの切れ目から脹脛へ。脹脛から膝小僧へ。膝から太ももへ。
 太ももから、
「……」
 スカートに隠れて見えない部分にまできて、俺の腕が布を押し上げる段になって、
 パンツを引き上げるにつれて俺の視線も長門の体を駆け上っているわけで、
 俺と長門は頭一個は身長差があるので、今ちょうど目線の高さが同じで、思い切り目があってしまって、
「……どうか、した?」
「どうかしそうだよ……」
 息の掛かる距離でほんのり、本当にうっすらと頬を染めた長門の顔なんて見た暁にゃ、
 ……あーもう、本当にどうにかなっちまいそうだ。
 言うまでもない事を改めるが、長門は整った顔立ちをしている。ずばり可愛い部類に入る。
 宇宙的プロフィールさえなけりゃ性格も含めて特別にお近づきになりたいくらいだ。
 そんな長門が俺にパンツ履かせてもらって恥ずかしそうにしているんだ。
 光の加減の具合と錯覚してもおかしくないが、それでも確実に頬を染めて、
 七宝のように輪郭をぼやけさせた淡い瞳で俺を揺ら揺らと見つめている。
「あと少し」
「そうだな」
「何故手を止めるの?」
 そいつは無念無想にしたはずの心に沸々とやましい感情が沸騰しているからだ。
 ……だが、それでも。
「ちょっと一休みしただけさ」
 苦笑いしながら言って、俺はええいままよ、と一気にパンツを腰まで引き上げる。
 自慢じゃないが世界遺産に落書きするようなアホでも、友愛の仁義に疎い人間でもないんでね。
 ぐつぐつ煮える悪魔さんは「このまま履かせずずり降ろして、そのまま押したおしちまえよ!」
 などという甘美な提案を声高々に叫んでいらっしゃったが、そいつは出来ない相談だ。
 パンツが上手く履けない。
 だから貴方に助けて欲しい。手伝って。
 長門はそう言うが、別に俺を誘っているわけじゃないんだ。信頼できるからと頼っているだけ。
 アンドロイド少女に誘惑っつう概念が備わっているかは知る由ではないとろこだが、
 その相談はそうだな、履かせてじゃなく脱がせてと頼まれた時に聞いてやるよ。それも進んで。
 ま、そんな日は未来永劫来ないだろうがね。
「終わったぞ」
 すばやく腕を抜きさって、頭一個低い位置の長門に笑いかける。
 感触とあの微妙なぬくもりと長門の表情は暫く忘れられないだろうが、
 今の俺は変な達成感にちょいとばかり爽快感を覚えていた。
 始めは耳がイカレポンチになったと思ったが、終わってみれば俺たちの信頼を再確認できたレクリエーションだったと思える。
「感謝する」とぽつりと呟いた長門もまんざらじゃなさそうで、そいじゃ茶でも貰ったらそろそろ本気でお暇――
「……あっ」
 させてもらおうかなと思っていた矢先。
 非常に珍しいものを見た。
 滅多にというかほぼ感情を面に出さない長門の驚愕顔である。
 学校に着いてしまってから体操着を忘れたことに気がついたみたいな様子だ。
 小さく口と目を開けたかと思うと、直ぐに眉の端を三ミリほど垂れ下げている。
「いったいどうしたってんだ? お前が驚くくらいだから、ハルヒのやつが情報爆発とやらを起こしたのか?」
「そうではない。涼宮ハルヒは現在安定している。情報を発生させる予兆もない」
「だったらなんなんだ? 何を驚いてるんだよ」
 ハルヒでは無いのならまた天蓋どうたらのあのもっさりした宇宙人が何かやらかしたのだろうか。
 もしもそうだとして、それが長門に害をなすような事柄だったら今度こそ本気で怒るぞ――と、 
 脳裏で「こんな長い髪はこうしてくれる!」とバリカンを持った自分と、そんな俺に泣かされている九曜を想像していたら、
「その」
「うん?」
「とても言い辛い」
「あぁ、別に何か事件とかじゃないんなら言わなくても良いぞ?」
 驚愕の表情が一転する。
 長門はどうしてか今しがたパンツ履かせた時の照れた表情に逆戻りして、
「言い辛い」の言葉どおりに口を開いてはつぐむなんて……可愛らしい仕草を繰り返した。
 ボールにちょこちょこパンチを浴びせる猫みたいだ。癒される。
 今の長門を電化製品に組み込めば家がマイナスイオンで溢れかえるな、とほんわかする俺を上目遣いで見上げ、
 決心がついたのだろう、一度頭の中で述べるべき台詞を予行演習する一拍を携えてから長門は口を開き、
「今日はまだ入浴していない」
「ま、夕飯も食ってないしな。……つうか、それが言い辛かったのか?」
 女の子だから汗臭いとかは気にするだろう。
 長門に発汗機能があるかどうかはともかく、埃やらで汚れはするはずで、それを気にしていたのだろうか。
「違う。そうではない」
「だよなー」
 そもそもそんなこと気にしなくたって全然大丈夫だ。
 さっき間近で見た乳白色の肌は研磨された宝石みたいにつるつるだったし、
 汗臭いどころかシャンプーの植物性の優しい甘い香りがしたし。
 そんな長門に比べたら「お前風呂はいってんのか?」と鼻を摘みたくなるような人間はごまんといて、五万じゃくだらないだろう。
 だが「気にするなよ「と笑う俺に長門はどうしてか寂寥感を背負って緩く首を振って否定し、
「入浴していない事が問題なのではない。これから入浴することが問題」
「……それのどこに問題があるんだ?」
 腕を組んではてさてさっぱりと首をモリスエする。
 何か長門の目が「これで察して欲しい」と訴えているような気もするが、すまん、てんで分からん。
 お前と俺じゃゲームウォッチとスパコンくらいに脳の出来が違うんだ。
 もうちょっと分かりやすくというか、簡潔に端的にずばっと言ってくれんか。
「……」
 チンパンな俺を見つめ、次に緩慢な動作で床を見つめ、最後にまた俺を見つめ。
 長門は観念しましたとでも言うように、小さな息を吐いてから喋りだした。
「……入浴するためには、衣類を脱ぐ必要がある」
「だな。服を着て風呂に入るなんて酔狂は、書いて字のごとく酔っ払いくらいしかしないだろうさ」
「衣類を全て脱げば全裸になる。そして、入浴が終わればまた衣類を身につける」
「暑いつってもまっぱじゃ流石に風邪ひくよな」
「……だけど、今のわたしは……上手くパンツを履くことができない」
「あ」
 酔っ払いだとか風邪ひくだとか、うんうん頷いていたそのままの体勢で俺は固まった。
 ゲームウォッチとチンパンジーに土下座せねばなるまい。
 非常に申し訳ございませんでした。
 ……そうだ、そうだよ。俺はバカか? いや馬鹿だ。確実に馬鹿だ。馬鹿が馬鹿を馬鹿と言うんだから三倍馬鹿だ。
 さっきのあのメモリーノートに書き込むべきがどうかちょっと迷ってしまうような体験をもう忘れたというのか。
 否。断じて忘れちゃいない。そうやってしっかり照れた長門の表情は脳裏に焼き付けた癖に、
 パンツ履けないから派生する諸々の二次災害三次災害的問題についてまでは全く頭が回っていなかった。
「……そうか、そうだった、というか、そうなんだよな」
 フォーティファイブACPだ。いやこの際ダムダム弾だ。殺傷能力がとびきりのやつを叩き込んでくれ。
 落ち込んで影と射線を背負う俺に対し、長門は尚も恥ずかしそうな様子で、
「それだけではない。排泄行為の際にも下着の着脱は必要不可欠」
「……」
 想像してみる。
 風呂上りのほかほか長門と、おしっこ終わりのしとしと長門。
 そんな長門の前にひざまづいて、パンツを履かせてやる俺。
 足を通すのはもうお手のものだ。
 だがしかし、するすると引き上げていった先には、長門の腹や胸や、無垢と魅惑を兼ね備えた相貌が。
 何かの拍子で太ももや尻を触ってしまうかもしれない。そして長門は反射的に「あっ」とか声をあげてしまうのだ。
 もしそうなったとしてみろ。友愛とか仁義とか、そんなもの瞬時にしてどうでもいいものに成り果ててしまうだろう。
 ――つまり、月とか尻尾があるとか関係なく、獣に成り果ててしまう。
「……確か、日常生活のための情報が欠損しちまったんだっけ?」
 もしもしのもし、そうなったとしても長門なら俺を振り払うなり気絶させるなり朝飯前で、
 最悪最低の事態にはならないだろうが、俺の風評やら人間的価値やら精神とかやらは奈落の底に一直線だ。
 断固として回避せねばなるまい。太平洋戦争開始に最後まで反対した将軍よりもかたく誓う。
「その欠損とやらの修復は出来ないのか?」
 そのために第一。早いとこ長門に何時もの調子を取り戻して貰えばOK作戦は、
「事故修復は不可能。この国の標準時であと約十ニ時間二十四分三十五秒後に思念体により修復される予定」
「……明日の朝までダメか」
 一応の戦果はあったものの、電撃戦にしては遅すぎる決着だ。
 たぶんトイレは夜に一回朝に一回くらい。風呂一回。概算で最低あと三度は長門はパンツ履かないといけない。
「喜緑さんは? あの人に助けてもらえないのか?」
 だが俺は三度も耐える自信が無い。
 しかもそれを行うためには長門の家に泊まらなければならない。
 しかもしかも、今日俺が長門の家に行っているという事を知る人間にはあのハルヒさえ含まれる。
 なんたって部活の終了時に長門に誘われたのだから。その時思いっきり「仲が良くて良いわねぇ?」なんて睨まれた。
 当然家族にもバレバレで、妹からハルヒに「昨日キョンくんかえってこなかったー」という情報が伝わる可能性は……、
 悲しいかな泣けるかな、口止めしたところで大した効果はないだろうて、多分百パーだ。
 そういうワケだから長門の家に泊まるのは無理無理絶対無理だというのに、
「喜緑江美里も現在、同じ情報欠損によって日常生活に支障をきたしている」
「……」
「彼女は生徒会長に助力を請うていた。……わたしは、あなた」
 その気になれば飛来する隕石群だって鼻くそほじりながら止められるスペックを持ちながら、
 そんなハイパー早口少女は二人ともパンツ履けない病に苦しんでいるという。
 ぱんつはけないわーぱんつはけないわー!
 わたしはあなた、とかそんな告白まがいに言われてもだな、無理なものは無理だ。
 最悪風呂の後だけは手伝ってやるから、トイレの方はおしめでもしてくれ。
「わたしは乳幼児ではない」
「いやな、最近じゃ赤ちゃんやお年寄りばかりじゃなくて、大人でもおしめを、」
「排尿障害も患っていない。ただ、……パンツが上手く履けないだけ」
「……」
「……迷惑?」
 迷惑だとは重々に承知してなおかつ、あなたにしかこんなこと頼めない、ごめんなさい。
 と、そんな目で見つめてくる長門。
 目は口よりも物を言うな、お前の場合。全く本当に感情表現が豊かになったもんだ。
 恥ずかしそうにしたり、実際に恥ずかしがったり、照れたり、あの頃の俺じゃ想像もできない姿である。
 そんな具合に色んな長門を見せられて、おしめとかぬかしていた俺も心がぐらぐら揺れる。
 天秤だ。片方には可愛い長門を助けてハルヒにボコられる。片方には長門を見捨てて鬼畜外道の道を歩く。
「やれやれだぜ……」
 溜息一つ、肩を竦めるのはもう癖みたいなもんだ。
 ぐらぐらぐらぐら。ことん。よし、決まり。
 天秤はどっちに傾いたかだと? 言わなきゃ分からんようなヤツはチンポコ付いてないなんじゃないのか?
「長門」
「何?」
 と、簡潔に返答しながらも不安げに瞳が揺れているのは俺の目の錯覚じゃねえだろう。
 迷惑だと断られることを恐がっている。
 任せとけと手を取ってくれることを望んでいながら、そのくせ手を伸ばすかといえばそうでもない。
 ただ長門はそこに居る。自分が不安がっていると理解していないんだろう。
 本人としては何時もどおり。その何時もどおりが随分と人間臭くなって、
「着替え取りに一回家帰るからさ、その間に飯つくっといてくれよ」
「良いの?」
「お願いしといて良いのも何もないだろ? 良いんだよ。任せとけ。いくらでも手伝ってやる」
 軽く胸を叩く。自制心の修行だ。
 長門は「久々にお前のカレーが食いたい」とリクエストする俺を瞳の真ん中にがっちりとらえ、
「……ありがとう」
 ほんの数ミリ、目を細める。ほんの数ミリ、口の端を緩ませる。たったそれだけで。
 満月の空の下で、一夜限りしか花を咲かせない月下美人にように、儚く、微笑んだ。
 ――今の顔が見れただけでも、ハルヒの拳骨を差しひいておつりがくるな。
 写メでも取って家宝にしたい気分だったが、こういうものは一瞬だからこそ尊いものだ。
 何時の日か長門が腹の底から爆笑するみたいな、明るすぎてくしゃみが出そうな笑顔をするようになったとき。
 そのときまで写真を撮るのは我慢しよう。
 そんな風に笑う長門なんてらしくなさすぎて想像できないが、その時の俺はきっと「これこそ長門」って、そう思ってるだろうよ。
「じゃあな。ちょっと行って来る」
「いってらっしゃい」
 靴を履いてる間にエプロンを身に纏った長門のぺこんとしたお辞儀に見送られて、俺はマンションを後にした。
 
 …………
 ……

 カレーはそれはもう美味かったし、腹一杯で幸せ一杯だったし、
 風呂上りの長門はほかほかで肌の血色がよくってすげえ良い匂いがしたし、
 パジャマはズボンだから上着の裾をぐいっと引っ張って大事なところを隠していたし、
 替えのパンツはシンプル白が霞むほどの大人らしい黒のやつだったし、
 トイレの後の表情といえば麻薬かなにかってくらいにけしからんかったし、
 枕を並べて他愛無いおしゃべりをする時間は心安らいだし、
 朝は半分寝てたから以外とスムーズに履かせることができたし、
 欠損していた情報もちゃんと修復されて、自分で履けるようになったことを長門は嬉しそうに実践してくれた――のだが、
「そいじゃ朝飯馳走になったら俺は帰るかな。今日はお袋に予備校見学に行くぞって前からどやされてたんだ」
「了解した。重ね重ね貴方にはとても感謝している。……着替えてくるから、ご飯は待ってて」
「おう」
 うららかな土曜日。
 天気は季節を如実に反映してからっと晴れ上がり、放射性のコバルトブルーの空には雲ひとつなくて。
 長門とそんな新婚夫婦みたいなやりとりをして頬を際限なく緩ませつつも、
 何が悲しくてこんな日に勉強するための棺桶見学なんぞせにゃならんのだと空より深くて濃いブルーになっていると、
 毎度毎度ゆるやかな動作で音も無く行動する長門にしては珍しく、ガタン! と音を立てて扉を開き、
「……問題が発生した」
「何だ? どうした? 今度こそハルヒがらみか?」
「そうではない。涼宮ハルヒは安定している」
「じゃあなんなんだ? もうパンツのことは解決したろ?」
 パジャマのまま部屋の敷居に呆然と突っ立っている。
 呆然というのは俺の主観的感想だが、ともかく長門は「信じられない」といった驚愕と、
 どうしてか道端にエロ本が落ちているのをばっちり見てしまった内気な女子中学生みたいな恥じらいを混同させて、

「……今度はブラジャーが上手くつけれなくなった。手伝って」

「え?」
 おかしいな。一昨晩寝る前に耳掃除をしたはずだが。
 少々行儀が悪いが指でほじくってみる。耳クソ無し。うむ、だとすれば病気だろうか。
 難聴……とはちょっと違うか。タモリ的空耳病とかそういうの。
「断じて違う。あなたはとても健康」
 長門は冷や汗をかく俺の両手首をむんずと掴み、すすすと体を寄せて、
「もう一度言う。……ブラジャーが上手くつけれない。手伝って」
 お、ね、が、い。
 と、息を吹くだけで続けるという高等テクニックを披露した。
 艶かしく動く桜色の唇。細い白魚みたいな首。パジャマに隠された、おっぱい。
 ブラジャーがつけれない。寝るときブラジャーする女性はあんまり居ないだろう。
 つまり――長門は今ノーブラである。
 ノー・ブラジャー。ブラジャーしていないのである。
 どっきんばっくんだ。心臓がエイトビートを刻んでいる。
 ランクで言えばおっぱいより下腹部の方が上のような気もするが、何故かおっぱいの方がワクワクするのだ。
 それというのも正直豊満とは言いがたい長門の胸部だが、不思議なことにノーブラという情報を獲得することによって、
 その魅力の数値がスカウターを爆発させる勢いで上昇し――
「……っ」
 ん? 今、長門の口から「くすっ」とかいう小さな音が漏れたような……?
「ノーブラ健康法も存在する?」
 違和感に首をトカチェフする俺にそう尋ねる長門。
 生憎そういった体調管理の方法があるかどうかは俺の知識外だが、多分ないんじゃないか?
 ……って、分かった。分かったぞ! いつも鈍感だと馬鹿にされるが、今は分かった。違和感の正体、それは、
「なぁ、長門よ」
「何?」
「お前さ、俺のことからかってんだろ?」
 疑問系にしたが、確信を持って言う。
 ジト目でねめつける。黒曜石のつぶらな瞳と真っ向対決だ。
 先に逸らした方が負けとはよく言ったもんで、長門はたちまち眼球をゆるやかにあらぬ方向へ向けて、
「情報操作は得意。だけど」
 そこで一度ぱちくりと瞬きをすると、同じ速度で瞳は戻ってきて、俺を射抜いた。
 ジーワジーワと近くの公園に木々に居るんだろうセミの鳴き声が室内まで届いてくる。
 夏休みの朝。まだ夜の涼しさを残す朝焼けの中、爽やかに咲こうとするアサガオのように長門は顔を緩ませ、
「……嘘は、苦手」
 ごめんなさい――。
 言葉とは裏腹に、言い終えると長門は俺の手を開放し、軽やかな足取りで自室に戻っていった。
 あの長門は俺をからかった。嘘を言った。笑った。
 軽くない驚きに今更ながらぼへーとしていると扉が開き、お決まりの制服姿のざっくりカットがちょこんと登場する。 
 そこで俺は再起動を果たし、
「長門よ。朝飯は和食で頼む」
「了解した」
「それとな、実は……ちょいとやっかいな問題が一つあったことを思い出してな。聞いてくれるか?」
「……?」
 もったいぶった言い回しをする俺に律儀に付き合ってくれる長門に、
 にやり、と俺は勝利を確信した余裕しゃくしゃくの笑みを浮かべながら、
 これが上手くいけばハルヒの拳骨を二発貰ってトントンだなという台詞を朝から惜しげもなく使うことにした。
 パンツを履くのを手伝ったことによって新密度が一気に増した長門へ、ここぞとばかりに呟いてみる。

「というのも、……ハシを上手に使えなくてな。飯食うの手伝ってくれ」

 ほら、アーン、とか。お前も見たことあるだろ?
「……りょ、了解した。お安い御用」
 そうかそうか。そいつはどうもありがとうな。いや、すげえ助かるわ。
 しかし……良いね。その顔。鏡をもってきてお前にも見せてやりたい。

 言うなれば、そうだな。――とってもユニーク、だぜ。