――――人間は本当に悪くなると、他人を傷つけて喜ぶこと以外に興味を持たなくなる。


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「せ、先輩! ふ、服を着たままです……っ!」


 士郎は桜を腕の中に抱いて、ゆっくりと目を覚ました。顔に降りかかる陽光と、胸にあたる桜の寝息が暖かく、そしてくすぐったい。洩れそうになる声を抑えて、身を捩る。そして腰に回していた手を移動させ、穏やかに眠る桜の髪の毛を梳いて、ゆっくりと頭を撫でた。

 ――誰がこの幸せそうに眠るコマシな女の中におぞましい蟲が巣食っていると判るだろう。

 士郎は桜の頭を撫でながら、ふいにそんなことを考えて、そんな女を抱いている俺は一体なんだ、と心の中で誰にでもなく問いかけた。

「決まってる――」

 ――正義の味方。それ以外無いだろう。

 盛大に溜息を吐いて、士郎は桜の顔を胸に抱きなおすともう一度目を閉じた。可愛くて可愛そうなヤツだ、桜は。そして、俺も。

 時刻は七時過ぎ。どうせ遅刻だった。


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 午前十時半。遅めの朝食をとって、桜は一度家に帰ることになった。いや、士郎がそうさせた。昨日あれだけ良かった気分が、今は良くない。昨日のあの野郎、小物だったのか新聞に載りはしたものの一面じゃ無かった。いや、それは別に問題ではない。下種な悪党が一人減ったことに変わりない。それよりも士郎の気を悪くさせていたのは一面を飾った記事の内容である。

 強盗殺人事件。一家四人のうち三人が惨殺されて、子供一人だけが生き残った。

「――――っ」

 士郎は顔を憤怒に染めて、歯を食いしばった。警察の調べによる犯行時刻と、昨日自分があの男をヤった時刻は分にして十と離れていなかった。もしかしたら防げたかもしれない。いや、コトを終えた犯人をその場で捕まえてやることさえ出来たはずだ。それを俺は――――

「糞っ!」

 士郎は腸が煮えくり返る思いをそのまま拳に乗せて、道場の床に打ち付けた。落ち着こうと思って組んだ座禅だが何ら意味をなしてはくれしない。強かに打って痺れた拳を今度は膝の上に持ってきて、血の気がひいて白くなるほど握りしめる。

 どうする。決まってる。殺す。俺が。正義の味方が。

 ならば今夜から街に出よう。顔は判らないが悪党は匂いで判る。この街に潜伏しているのか、逃げたのか。判らない。だからと言ってじっとしていられない。とにかく、動く。動いて、探して、そして。

「……?」

 決意して、それと同時に士郎はあることに気が付いた。床に打ち付けた右の拳の甲が赤く蚯蚓腫れのように腫れあがっている。いや、それどころか血さえ滲んでいる。

「ちっ」

 強くやりすぎたか。士郎は舌打ちして、立ち上がった。魔術刻印がある魔術師ならばこんな傷直ぐに治るのだろうが、生憎と自分は正規の魔術師ではない。いや、魔術師ですらない魔術使いだ。怪我をしたら普通の人間と同じ治療をしなければならない。

 救急箱は廊下の箪笥にしまったっけか。ちっとも落ち着かない頭の中でそう考えながら、士郎は道場を出た。


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 午前十一時半。桜は自室のベッドに腰掛け、部屋の隅で直に立つ長身長髪の美女に向けて、沈んだ面持ちと声音で喋りかけた。

「ねぇ、ライダー」

 ライダーと呼ばれたその女性は、間桐桜により呼び出された聖杯戦争七騎のサーヴァントのうちが一騎である。騎乗兵の名を冠する彼女は多彩な宝具と高い対魔力を持つ優秀なサーヴァントであったが、性格はよろしくない。いや、正確には生前の生活ゆえに人と付き合うことがあまい上手でない。桜の様子にも問いにも表情を変えず、なんでしょうかと短く問い返すだけだった。

「……ごめんなさい、呼んでみただけ」

 桜は小さくそう呟くと、ベッドに倒れこむ。別段ライダーの応対が気に触ったわけでもない。ただ、気分が優れなかった。昼間に見た士郎の右手。確かに令呪の兆しがあった。それは士郎は聖杯戦争が七人の魔術師――マスターの一人に選ばれたということ、もうすぐサーヴァントを召喚して、自分とライダーとも戦うことになるかもしれないということ。勿論桜にそんな気はさらさら無かったが。

「――――」

「――――」

 それきり会話も無く、桜の部屋には時計が秒を刻む音が響いた。家の持つ気配か、心なしかどんよりとした沈黙の中、桜は天井を見つめながら考える。

 どうにかして先輩が死なないで済むようにしなくちゃいけない、私達が戦わないで済むようにしなくちゃいけない。

 ――どうにかして、自分が勝ち残って望みを叶えないといけない。

 どうしようか。お爺さまの話では今回の戦争には姉さんも参加する――遠坂の跡取りなら当たり前か――らしい。きっと自分では勝てない。勿論先輩でも。ならばどうする。

「あ――――」

 そうか。だったら私と先輩、二人で姉さんと殺……戦えば良いんだ。桜は口元を歪めて、くすくすと笑った。何だ、凄く簡単なことじゃないか。先輩は悪い人を絶対に許せない性質だから、上手く煽動すればどうとでもなる。姉さんより腕がたつ魔術師が参加しているとは思えないし、姉さんが呼び出すサーヴァントより強いサーヴァントも居るとは思えない。だから姉さんを真っ先に倒して、残った相手を二人で潰していって、最後はライダーか先輩のサーヴァントを自害させれば聖杯は現れてくれる。

「――――ふふ」

 名案だ。名案だ。名案だ。それで聖杯にお願いするんだ、先輩を私だけのモノにして下さいって――――


 /


「――――」

 ベッドの上で己の体を抱きながら負の笑いをあげる桜を、ライダーは眼帯に覆われた目で見つめた。その顔に感情と呼べるものは何も浮かんでいない。彫像の如き無表情。ただ心の中で思うのは、

「ねぇ、ライダー」

「何でしょうか、サクラ」

「私ね、考えがあるの――――」

 つくづくこのマスターは自分と似ている、ということだった。

 自害する部分以外の説明を終えて微笑んだサクラにあわせて、ライダーは召喚されてからというものの、初めての微笑をその端整な顔に乗せた。


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 穂群原学園の屋上の給水塔の裏。遠坂凛はハンカチを広げたうえに腰を下ろして、売店で購入した昼食を食べていた。いつもはお弁当を作ってくる凛だったが、昨日サーヴァントを召喚した影響か、どうにも今朝は体調が悪くて作る暇も気力もなかった。勿論休むという選択肢は学園一の優等生の彼女の中には存在しない。

 凛はうぐいすパンをむぐむぐと咀嚼すると、缶のレモンティーをあおって腹へと流し込んだ。味気ない。心底。授業にも集中できないし、こんなことなら学園を休んでマスター探しでもすれば――――

「――――」

 そこまで考えて、凛はこめかみを押さえて頭を振った。馬鹿馬鹿しい。いくら聖杯戦争だからといって生活リズムをかえる気はないし、この次期に急に学校を休めばマスターでは、と疑われるのは自明の理だった。

 とりあえず今日は早く家に帰ろう。早く帰って今晩はマスターを探す。幸い自分が呼び出したアーチャーは弓兵の名のとおり索敵に優れている。上手くいけば今夜中に一組潰せるかもしれない。

「ということだから、アーチャー」

 リンはうぐいすパンの最後の一欠けらを口に放り込むと、背後の何も無い空間に向けて喋りかけた。無論、ソコには霊体化した自らのサーヴァントであるアーチャーが控えている。

「食べながら喋るのは無作法だぞ、凛」

 霊体化したままそう答えたアーチャーだったが、声質は研ぎ澄ました剣のように真剣だった。つまらないこと言ってんじゃないわよ。立ち上がってハンカチを折りたたむと、凛は残っていたレモンティーを飲み干した。飲み干して、心の中で息を吐く。例の斬殺殺人鬼も何とかしないといけないし、セイバーを呼び出すのには失敗するし、まったくツいてない。だからといって私が負けるなんてありえないけれど。

「――――」

 髪をかきあげて颯爽と歩き出す凛の顔は、自信に満ち溢れていた。


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 士郎が屋敷を出たのは、午後八時をまわったところだった。些か早すぎる気もするが、とにかくじっとしていられなかった。日は沈んでいるのだ、問題ない。寧ろちょうど良いくらいだ、と士郎は靴紐をきつく結んで家を飛び出した。

 早足で現場付近を重点的に深山町をまわり、続けて新都にも足を伸ばす。己の知りうる限り怪しそうな場所、と言っても殆ど勘頼りだがに駆け回り、不審な人物を見かけては様子を窺い、時には声をかけた。

 かれこれ六時間ほどそんなことを続けて、しかし士郎の想いや行動量と範囲に反してこれといった成果もなく。士郎は苦虫を噛み殺したような憮然とした表情で深山町に戻ってきた。疲れは無い。明滅する街灯が並ぶ閑散とした道を大またで歩き、転がっていた空き缶を蹴り上げて、天を仰ぐ。ちくしょう、一人でまわるにはこの街は広すぎる。けれどだからといって諦められないし、諦めてはいけない。正義の味方ならば。

「まだ行ってない場所は――――」

 学園の近くか。そこを見回って、もう一度犯行現場周辺をまわって今日は引き上げよう。昨日の今日なのだ。二日続けて犯行を犯す確立は低い。と、己に言い聞かせなければこの沸々と湧いてくる怒りは収まりそうにも無い。いや、犯人をこの手で――俺の剣で殺してやるまでこの想いは静まらない。

 腹が立つ腹が立つ腹が立つ。この世に悪というモノが存在しているということが、こんなにも俺を苛立たせる。己が住む街に殺人犯が居るということが、こんなにも俺の魂を震わせる。

 見つけ出す。殺してやる。俺の正義の前に悪という存在がどれほど愚かで醜いものかをその身に刻み込んでやる。

「くそ」

 そんなことを考えても気分が悪くなるだけだ。止めろ。士郎は唾を吐いて、歩くのを止めて走り出した。

 学園までは遠いのだ。日付もとうにかわっている。急げ。


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 学園の屋上。冷風吹きすさぶ夜空の下、ライダーはせっせと鮮血神殿の魔方陣を描いていた。神殿はもしものときのための保険、ということらしいが、その真意ははかりかねる。己とマスターは似ているのも確かだが、サクラは奥底では何を考えているかは判らない。

 そんなライダーが、凛とそのサーヴァントを見つけたのは、日付が変わってから一時間ほど経った頃だった。何時の間にか見物人となっていた野良猫を逃してから、悟られぬように近づいて、確認する。私の方が、強い。

 念話で連絡して指示を仰ぐ。どうしますか。適当に戦って力量を測って。わかりました。

「――――っ」

 両の手に短剣を握り締め、ライダーは屋上から壁を垂直に駆け下りた。


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 目の前で繰り広げられている光景に、凛は固唾を呑んだ。深夜の穂群原学園のグラウンドに響き渡る、何合もの甲高い剣戟音に、鎖がうねる音。視認することさえ困難な速度で繰り出されるライダーの短剣による斬撃、刺突。長髪をなびかせ、高速で移動しながらのその攻撃を、アーチャーは両の手に構えた双剣で捌く。闇に溶け込むライダーの黒衣。三次元。予測不可能の死角からのソレを時には流し、時には弾き、時には踏み込んで、潰す。

 強い。凛は己たちに突然として襲い掛かってきたサーヴァントの実力を軽い戦慄とともに素直に認めた。認めざるを得なかった。アーチャーが押されている。いや、弓兵の彼が接近戦で押されているのは別段驚くことではない。最も驚くべきは、まだ両者の距離が開いている折、アーチャーが放った弓を全て躱し、援護にと凛が放ったAに属するランクの魔術を無効化してみせたその俊敏性と対魔力にである。

 見たところアイツは短剣を持っているけれどセイバーじゃない。キャスターでもランサーでもなさそうだし、バーサーカーなど論外だ。ならばアイツはライダーか。対魔力を持つのは三騎士、間違いない。

 マスターは近くには居ないようだが、今はそんなことを気にしている場合ではない。目の前の戦闘に集中しろ。しかし凛は歯軋りをして、拳を強く握り締めた。自分に出来ることは戦いを見守ることと、いざという時令呪を使うことの二つしかない。狙いが曖昧な宝石魔術はまず中らないだろうし、アーチャーの邪魔になる。それどころかライダーにはかすり傷一つつけられない。

「――――っ」

 凛は眉間に筋が行くほどライダーらしき残像を睨みつけ、それから視線をずらして対照的に殆ど移動らしい移動をせずに防御に徹しているアーチャーを見た。見た限り傷は無い。いや、小さな傷はいくつもあるだろう。けれど戦闘に支障をきたすような大きな傷、命に至る傷や痛み恨まなかればならないような傷は無い。表情も涼しい、とまでは行かないが苦痛や苦悶に歪められているわけでもない。余裕がある、あって欲しい。

 その間も剣戟は続く。右斜め後ろから頚動を狙って振り下ろされたライダーの短剣を、アーチャーは咄嗟に半身をずらし、左の手に握った莫邪で受け流す。その勢いを利用して千将を逆袈裟に振り上げるが、捉えたのは残像のみ。そんなアーチャーの背中を鎖が打ち、よろめいたところに短剣が二本同時頭を挟み込むように繰り出されるが、アーチャーはよろめくままに踏み込んで双剣を振るい迎撃する。

「やばいわね……」

 どうする。どうすればいいの。凛は聡明と自負する頭をフルに回転させて、この状況を看破する手立てを考える。そして無論、導き出される答えは一つ。

 ――――宝具。

 それしかない。しかし凛はもう一度思案する。記憶が混乱しているというアーチャーに果たして宝具が使えるか。いや、令呪を使えば良い。ただ問題なのは、それがどんな宝具なのかわからないところだ。対人なのか対城なのかアーチャーの名のとおり弓なのだろうか魔力を溜める時間はどれ程か効果は威力は消費魔力は――――

「っ! 駄目ね……」

 使えない。危険すぎる。下手をすれば命令した瞬間頭蓋を貫かれる、なんてこともあるだろう。大体この場所が悪すぎるのよ。遮蔽物が何も無い広いグラウンドで高軌道を武器にするライダーと遠距離戦を常とするアーチャーでは不利どころの話じゃないじゃない。

「……っ!」

 凛は端から血が垂れるほどに唇を噛み締めて、まったくツイてないったらありゃしない、と心の中で毒づいた。ポケットに右手を突っ込んでサファイアを握り締める。とにかく距離を取らせないとアーチャーは満足に戦えないのだ。そしてその距離を取る時間は、私が作る。

 だからちょっとくらい狙いがずれて当たっても怯むんじゃないわよ。剣で戦う己が弓兵に念話で短くそう告げて、凛は覚悟を決めた。

 双剣を振るいながら、アーチャーは虎視眈々と反撃のチャンスを窺ってー―などということはない。ライダーの速さとおもいのほかに重い攻撃に初めのうちこそ押されたが、慣れてくればその規則性のきの字も無い出鱈目な剣筋とて読むこと彼にすれば容易。流石に合間に繰り出される蹴りはまだしも鎖はまだ見切れ無いが、深手を負う、などということはまずないだろう。それに何故かライダーの攻撃からは明確な殺意が感じられない。試されているのか、舐められているのか。どちらにせよこのままの状態が続けば負けることもなければ勝つ事もない。

 ――さて、どうするか。鳩尾目掛けて放たれた膝蹴りを重ねた双剣の腹で受け止め、毀され、新たに取り出した双剣でそれを強引に弾き返す。着地するや否や、飛び掛るようにして放たれたこめかみを狙う短剣を捌いて、逆の剣を動きを読んで背後に向けて突き出す。それを衣一枚躱されて、十五間ほど離れた場所に着地する音に気配に、読み。そこでアーチャーはマスターからの念話を聞いて一つ呼吸を置いた。どうやら余裕のある彼とは違ってマスターである凛の方には余裕が無いらしい。初めての戦いではこんなものか。しかし援護してくれる気持ちは嬉しいが、はっきり言って、邪魔だ。いや、無意味だ。

(大人しくしてろ)

 ――さて。

 どうするか、とは続けず。かわりに、アーチャーの右の掌の中には鈍い黒の光沢を放つ弓が顕現していた。距離が開いたのだ。どういうつもりかは知らないがこの機を逃すなどありえない。

「――――」

 アーチャーは鷹の眼光でライダーを照らす。闇に負けないその黒い着衣に、禍々しい眼帯に額の刻。アーチャーはその全てに何嫌悪感を感じた。この女とは相容れない。決して。

「――――」

 射殺さんばかりに睨みつけたところで、ふいにアーチャーの埋もれていた記憶の欠片がゆっくりと舞い上がった。

 確か貴様は学園で結界を――――

 頭痛。刹那だけ、目を閉じる。脳裏に浮かぶのは、焼け爛れた級友達。悪夢。思い出したぞ、そうだ、貴様は。

「――――I am the born of my sword」

 目をゆっくりと開く。その形容、螺旋。詠唱と同時に、アーチャーの右手に一振りの剣が顕現して、握られた。

「悪党、が」 

 許さない。地獄の底。マスターが何事かわめいているが無視。深淵の怨嗟。あの時の俺では無理だったが、今なら。憤怒。呟いて、アーチャーが矢を引き絞る。狙いなどつけない。つける必要がない。放つから中るのではない、中るから放つのだ。

 中るという結果のもとに、放つのだ。

 即、必殺。

「――――偽・螺旋剣」 


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「――――はぁ」

 螺旋に渦巻く死を間近にして、ライダーは背中を駆け上がった感覚に思わず息を吐いた。そのような不細工な剣一本で何が――。数秒前の自分がそう心の中で相手を罵ったときが、余りにも遠い。

「あぁぁっ!」

 避けねば、死ぬ。何故。まるでそちらに避けるのを予測していたかのような軌道で進む矢に問いかけながら、ライダーは己の肉と骨が抉られる音と、

「――――壊れた幻想<ブロークン・ファンタズム>」

 愉悦に満ちたアーチャーの声を、聞いた。


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 雨の匂いがしたと思った。士郎は走りながら天を見上げた。強い風が吹いた。前を向く。一瞬だった。アスファルトに小さな斑点が浮かんだと思った次には、稲光と重低音と共に威勢良く雨が降り出した。数メートル先にある街灯の光に横殴りの雨が浮かび上がる。近くに駐車してあったミニバンの屋根に雨粒が叩きつける音が耳朶を打った。

「――」

 スコールか。それとも嵐か。天気予報を見ていない――そもそも信じない士郎には分からなかった。けれども、今晩は確かに何かあるという予感が膨れた。

 ざんざんざんざんと降り付ける。

 意に介さず走り続ける。ズボンの裾が濡れる。靴の中に雨水が入り込む。アスファルトを蹴るたびに間抜けな音がした。だからどうした。そんなものは全てがくだらない。急げ急げ、この雨が降っているうちが勝負だと、根拠のないけれど確信を持って士郎は走って走った。月は分厚い雷雲に隠されて、下界に月光は届かない。良い夜だ。むかつく夜だ。腹が立って、煮えくり返って、どうにかしそうだ。今にもイキそうだ。学園に近づく。視界に入る。回路が疼く。首の後ろがピリピリと痺れる。

「はっ、ハッ――」

 感じる。感じる。確かに感じる。あそこには何かある。くそったれ。やっと見つけた。そこか。其処にいろ。動くな。待っていろ。

 今すぐ、俺が――


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 油断? 運命?

 螺旋を巻いた矢が触れる。不細工な剣の矢が爆裂する。死の誘惑は甘美だった。このまま身を委ねれば、忌まわしい過去をもさえ忘れされるような、甘さがあった。

(ライダァ、ッ……!)

 けれど悲痛な主の声を聞いた。遠い彼方。けれど確かに届いた。エーテルで構成された肉が抉れる。骨を砕く。痛みに意識が一瞬とんだ。炎に包まれる。戻ってくる。死は私の体を撫でていった。撫でた、だけだ。だけだった。腕一本。肩口を炎で焼かれた。それは相手の狙いが疎かであったのか、それとも己の機動の成した僥倖か。どうちらかは分からない。確かなのは侮った。ただそれだけ。これでは戦闘を続行させるのはムリだ。だが、この程度なら数日で回復できるだろう。爆炎と風があたりを包んでいる。

「このケリは、必ず」 

 飛び散った己の血飛沫が目前にあった。舌先で一滴、噛み付くようにして舐めとる。不味い。不味い。化物である自分の血は、心底嫌気がさすほど不味だった。苛立ちが全身を覆った。憎しみが沸々と湧いてきた。ライダーは地を蹴った。今の己の身がなしえる、最高の速度でその場を離脱した。

 不適な表情を浮かべる赤い弓兵の姿を、しかと脳裏に刻み付けて。


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「逃したか」

 舌打ちをして、アーチャーは弓を消した。手ごたえはあった。しかし与えた傷は致命ではない。理解る。螺旋剣の爆発に紛れて、ライダーは姿を消した。撤退したのだ。何故だ? 俺は押されていた。いや、押していたと相手は思っていただろう。何故隙を見せた? 分からない。向こうも宝具を使う算段だったのか? アーチャーは考えて、けれど直ぐに思考を停止させた。

 そんなことは考えても仕方がない。いいや、どうでもいい。確かな結果は、この勝負にはたいした意味が無かったと、それだけだ。宝具を見せた分だけ此方の方が分が悪いかもしれない。いや、あの分ではライダーは結界を完全には仕掛けれていないだろう。ならば、痛みわけか。やはり気に食わない相手だ。ライダーは。思い出せるのは、赤い世界。それを作り出したのが、ヤツであるということだけ。

「アイツは!?」

「逃げた。様子見だったか――それにしては痛い授業料を払ってもらったが」

 駆け寄ってきた己のマスターと上辺で会話しながら、アーチャーは記憶の糸を手繰った。アレが起動させられたのは、何時だったか――馬鹿か、俺は。意味がない。これこそ意味がない思考だ。

 運命に従うまで。それ以上以下でもない。その時が来れば、成すことを成す。一縷の希薄な希望にかける。忌まわしき不精の自分。奴隷。この憐れな連鎖を断ち切ろう。

「どうする。追えと命令されれば追うが」

「決まっているでしょう。追うわ。倒してはいないけれどダメージは与えたんでしょう」

「確かに手ごたえはあったがね。だが罠の可能性もある。それに手傷を負った獣ほど恐いものはない。――深入りは好まない主義だが、命令とあれば仕方がないな」

「ぐだぐだ言わない。さっさと行くわよ。どっちに逃げたかは分かる?」

「大凡だが――」

 



continues.