あんたいとるど・ひも1

ペイ・ミー・ノー・マインド




 毎日毎日甲斐甲斐しく家に通っては食事の用意を筆頭に何かと世話を焼いてくれる人が居れば、その人に好意を持つのも自然な話である。
 さらにその人が自分より一つ年下の女の子で、さらにさらにとびきり、とは行かないまでもかなり可愛くて、スタイルも良くて、女っぽくて、性格も控えめでおしとやか、となれば好きになってしまうのは年頃の男子としては超自然な話である。寧ろ必然である。色恋沙汰にあまり興味がない性格なんてハードルにならない。ここまでされて何もしなけりゃ男が腐るってもんである。
 とは言っても、産まれてこのかた十数年。そういった女性と付き合ったり、どころか告白した経験すらない俺はいざ何をするってもなく今までどおりの日常を過ごすことしかできない。
 出来ることといえば茶碗を受け渡すときに指が触れてドキドキしたり、湯上りの姿を見てドキドキしたり、食事を用意する彼女の後姿に見惚れたり、料理を咀嚼する口元や嚥下する咽喉に魅了されそうになったり、というかまともに見れなかったり、夜布団の中で色々と妄想をするくらいだ。
 ちなみに彼女を汚すような行為は一切していない。そりゃ彼女のことを思えば彼女とそういった行為のひとつやふたつしたくなる。欲情する。だからといって己が一人で居るときに彼女を汚していい理由にはならない。そういう行為は二人の気持ちと合意があってするものだ、と思う。経験が無いからワカラナイけど。
 変化といえば今まで殆ど興味がなかった服装や髪型にも気をつけるようになったことくらいである。
 決死の思いでファッション雑誌を買ったりもした。さっぱり理解は出来なかったが、そのへんは長い付き合いでそのへんに詳しい友人が居るので問題ない。相談するときは滅茶苦茶はずかしかったし、お前熱でもあるのか、と言われ珍獣を見るような目をされもしたが、そんな俺の服装や髪型といった外観の機微の変化に彼女はすっと気がついてくれ、似合ってますよ、と褒めてくれるのだ。その夜はついつい夕食を豪勢にし過ぎて年がら年中飢えに飢えているトラを喜ばすことになるのは仕方ない話だろう。
 異性を好きになると人は魅力的になる、とは誰の言葉だったろうか。
 自分で自分が魅力的だ、なんて天狗なことは言わないし言えないけれど、実際最近お前なんか変わったな、とか、ちょっといけてんじゃねぇ、みたいなことはよく言われるようになった。勿論悪い気はしない。むしろちょっぴり嬉しい。ネコさんにエミヤん好きな娘できたでしょ、と一発でばれたのは関係ない話だ。
 
 ――だがしかし。
 
 その女の子に……肉体関係を頻繁にもつ人物が居たとしたらどうだろう。
 しかもその人物が自分の長年の親友だったりしたらどうだろう。その女の子の実の兄貴だったりしたらどうだろう。
 その兄貴を殴り飛ばすのか?
 近親相姦だと弾圧するのか?
 いや違う、そんなことしたら彼女が悲しむ。
 彼女がのことが本当に好きならば、彼女を悲しませてはいけない。頻繁、ということは彼女も実の兄貴にそういう感情を持っているということ……だ。恐らく。
 だから俺に出来ることは一つだけだ。
 太い木を探そう。そして枝にロープくくりつけて小さな台を用意しよう。
 その前に遺書を書いておこう。
 俺衛宮士郎は間桐桜が好きです、いや、好きでした。彼女の兄貴の慎二とは親友です。いや、親友でした。彼女ら二人とはもう今までどおりの関係ではいられません。顔も見れません。俺はみじめな人間です。憐れな男です。正義の味方を目指していながら、こんなことで親父の元へ――って、
「そうか……」
 親父――切嗣だけじゃない。雲の上には、あの世には、あのとき死んでしまった俺の本当の俺の父さんと母さんも居る。
 顔すら想い出せない、本当の名前すら想い出せない、俺の父さんと母さん。
 俺に苗字やユメや理想や、本当に大切なものを託してくれた親父。
 その三人にもらった命。助けてもらった命。
 それを自分から投げ出してどうする。俺は馬鹿だ。世界一の馬鹿だ。
 俺の心臓や脳味噌は一個しかないけれど、俺は四人分の命をもって生きているんだ。何で、そんな大切なことを忘れてた。
 失恋がどうした。相手は近親相姦のド変態野郎だ。気にするな。無理だ。気にする。全力で気にする。というか現在進行形であの二人の関係を偶然に知ってしまった日から俺は桜や慎二とまともに接することが絶対に出来そうになくて――というか絶対に無理で――プチ家出中だ。
 しかもきのみきのみまま木の実ナナで飛び出した所為で三日ほど飯を喰ってない。風呂にも入ってないし、着替えてもいない。野宿野宿野宿のサンレタンだ。万馬券だ。この世はステキだ。俺はピエロ。素敵なピエロ。道化恐怖症のクソッタレたちかかってこい。栄養失調アンド無断欠席だがなんともないぜ!
「はっはっは―――」 
 オカシイ。さすが俺だ。日ごろの鍛錬の成果だ。体は空元気で出来ている。
 だけどそろそろ限界だ。空を見上げれば親父と一組の男女がニコニコ笑って手招きしている幻影が見えた。もしかしてアレが俺の両親なんだろうか。というかこんなもんが見えるってことは俺は今素敵にやばい状態じゃなかろうか。
「ゴメンな。まだそっちには行かないよ。親父たちのためにも」
 さっき決意したのだ。とりあえず死ぬのは絶対ダメだ、と。それなのにその三人が手招きてどういうことやねん……って、そうか幻影か。まぁ一応手ぐらいは振っておこう。それにしても親父、老けたな。
『そ、そんなことないよ……!』
 うぉ。幻影が表情を変えた。しかも幻聴まで聞こえてきた。
 こりゃ本格的にやばいらしい。というわけで何か食べたい。何か飲みたい。食い物。水。あぁ、何で財布くらい持ってこなかったのか。
「……あ゛ぁー」
 奇怪な声を発しながら俺はふらふらとあてもなく彷徨う。
 真昼間の新都のハズレ。風俗店やら何を売っているのかよくわからない店や日本以外の言語で書かれた看板の店やらそういった類の店たちが軒を連ねる所謂裏通り。細い注射器を二回ほど踏んで、血痕を三度見て、悲鳴を四回聞いて、何かが割れる音を五度聞いた。そんな中、学園の制服を着ている俺は多種多用の視線を集めている。明らかに俺はこの空間において異物である。というか俺はどうやってどうして何故にこんなところに居るのだろうか。一日目は確か深山町の外れにある空き地の土管で。二日目は郊外の山で。三日目も同じ場所で寝たはずだ――あぁ、そうか。たまたまハイキングに来てた人たちに見つかってにいちゃん顔色悪いよ、こんなところでなにやってんだい、ってなもんで病院に行け行け言われて仕方なく下山したんだった。せっかく太い木を見つけたのに。……今は必要ないけど。
「そう、俺は生きるんでーす」
 そして正義の味方になるんでーす。近親相姦のド変態野郎たちをちぎっては投げちぎっては投げるんです。
 だからそのためには何かタベモノを食べないといけません。家に帰ればタベモノはありますが、ここから家までどうやって帰ればいいか判りません。お金もありません。体力があった昨日までは歩いて長距離移動できましたが、今はそんな体力もありません。なぜならおなかがすいているからです。おながすいている、といえば今頃タイガーこと藤ねえは俺のことをとても心配しているに違いありません。警察に捜索願いを出しているかもしれません。もしそうならば早く俺を見つけて保護してください。そしてカツどんを食わせてください。原が減っては戦が出来ぬ。原は今年こそ本塁打王を取れるのでしょうか。ネタが古い。
「……あ」
 やばい。マジやばい。今良い感じに現実逃避してた上に意識が飛びかけてた。
 頬をぴんしゃんと叩く。雀の涙ほどの効果しかないだろうが、しないよりはマシだろう。
「……」
 ……うん。本当にちょっと頬が痛いだけで何にもならない。
 腹減った。糞。早く抜けよう。この通りなんか臭いし。
 と、
「うわっ」
「キャっ」
 余所見していた所為で人とぶつかってしまった。
「……っつ――」
 どん、と尻餅をつく。ケツをしたたかにアスファルト。結構痛い。
「いったぁー……。ちょっとアンタ、何処見て歩いてんのよ!」
 それは相手も同じだったようで、声からするに女のその人は声を荒げた。
「――すいません。ちょっと余所見してて」
 片方が余所見していたぐらいでは正面衝突なんてしないだろうが、俺が余所見してたのも事実だして素直に謝ることにする。というか腹が減っている。さらにこういった事態には慣れてない。穏便に済ますのが得策だと思う。
「ったく、ちゃんと前見て歩きなさいよ」
「……すいません。その、怪我しませんでしたか」
 言いながらケツをさすりながら立ち上がろうとして、女の人の姿が目に入った。
 腰のあたりまで綺麗に流した黒髪は僅かに紫ががっていて、包まれているのはやや丸っこい顔。輪郭やつり目がちの瞳や小さめの唇からは口調のような剣呑さは感じれなくて、美人、というよりは可愛い、が似合うような顔立ちの人だった。――何となく桜に似てる。化粧をしっかりと決めているところと、大胆すぎて直視できない服装はまるっきり正反対だったけれど。
 ……少し、気分が滅入った。
「お尻が痛い。すんごく痛い。もしかしたら骨盤が歪んだかも」
 女の人は唇をとんがらせながら俺が差し出した手を引っ張って立ち上がる。
「赤ちゃんが産めなくなったらどう責任とってくれるの……って、何、アンタ学生なの」
 なんだか妙なノリの女の人は俺の姿を見てわずかばかり驚いたようだ。
「ここはアンタみたいなのが来るところじゃないわよ。悪いこと言わないからさっさとママのところに帰りなさい。でもその前に荷物拾うの手伝いなさい」
 言って、女の人は視線を地面に移した。追ってみれば、なるほど、沢山の紙袋やら包装された長方体たちやらが散らばっている。さっきぶつかったのはこれで視界が悪かった所為なのだろう。
 わかりました。と言って荷物を集める。幸い割れ物の類は無いようである。紙袋の中身は衣服が殆どだった。
 が、如何せん数が多い。一人でどうやってこれだけの荷物を持てたのか不思議だ。 各指に紙袋一つずつ、上腕に一つ前腕に二つとか計算してみると持てないこともない数なのがさらに不思議だ。
 俺が荷物を集めている間女の人はというと――
「――」
 腰に両の手を当ててしらーっとした表情で俺の方をチラ見したり、あたりを眺めたりしている。手伝いなさい、って言ったくせに自分が拾う気配はまったく無い。
 ……いや、いいんだけどさ。
 そうこうしているウチに集め終わった。ササっと形を整え、汚れをぱぱっと払って女の人に手渡そう――として、
「はい、どうぞ――」
「予定変更。やっぱりアンタそれ私の家まで運んで」
「――」
 むすっとした顔でそう言われた。
 ……流石になんでさ。
「あの、どうして俺が……」
 別に引き受けても構わない。負い目もある。それでこの人が助かるなら良いだろう。だが、今はとにかく腹が減っているんです。
 と、こんどは俺のほうが少しむすっとした顔になったようである。
「……なによ。アンタ私のこと傷物にしてくれたのよ。まだ嫁入り前だってのに。
 それに男だったこれくらいのことでガタガタ言うんじゃないわよ――」
 そこまで言って、ふいに女の人が顔を近づけてきた。
「え――」
「――黙ってついて来なさい。アンタ、そんな欠食児童みたいな顔して。見てる方が辛いわよ」
 真面目な顔で小声で言う。言って、くすりと微笑む女性。
「――あの」
「何よ、呆気にとられた顔して。栄養つけさせてあげるって言ってるの。はい、分かったらさっさとついて来る」
「は、はい」
 ぼけっとしている俺を置いてさっさと歩き出す女性。
 ――良い人だ。そう思った。
 慌てて後を追う。滅入っていた気分は、少しだけ晴れていた。
 
 

 
 
 新都の中心のオフィス街、そして裏通りの風俗街。その両方のほぼ真中に彼女のマンションはあった。開発ラッシュのときに建てられたというそれは、高級マンションと呼ぶに相応しい外見と内装だった。
「ちょっと、何ぼけっとしてんのよ」
「あ――いえ、凄いところに住んでるんですね。……お邪魔します」
 広さだけで言えば俺の家の方が遥かに広いけれど、内装の豪華さじゃ比べもにならない。まるでホテルみたいだ、なんてことを考えながら、おずおずと室内に足を踏み入れる。
「すご――」
 室内に入って、さらに驚く。圧倒されて立ち尽くして、思わずそんなことを口走っていた。
「これでも業界じゃちょっとした有名人なのよ、私。百年に二人の逸材ってね」
「二人?」
「そ。所謂ライバルってやつ。何かと私に突っかかってくる嫌な女が居るのよ。ルヴィアって言うんだけど、何の因果か腐れ縁でね。うっとうしいったらありゃしないわ」
 言葉とは裏腹に女の人――遠坂凛さんは楽しそうな顔だ。嫌な女って言ってるけど、きっとそのルヴィアさんとは良い友達なんだろう。
「化粧落として来るからちょっと適当にしてて。飲み物は冷蔵庫に入ってるから」
「――あ、はい」
 荷物を降ろした遠坂さんは手をひらひらと振ってリビングから出て行った。
 ……適当にしてて、と言われてもなぁ。人の家の冷蔵庫を開けるのもなんだし、照明は煌びやかでソファーは野球チームが座れるくらい大きいしテレビはCMでよく見る大きなプラズマテレビで――とにかく豪華過ぎて寛ごうにも落ち着かない。落ち着けない。……これは、女の人の一人暮らしの家にお邪魔している、というところが一番大きいのだけれど。
「――」
 とりあえずソファーに腰掛ける。隅のほうにちょこんと。
「……はぁ」
 柔らかさに軽い驚きと喜びを覚えながら、息を吐く。溜息とも安堵ともつかない。
 この状況は喜ぶべき状況なのか、それとも、申し訳ないと、何でこんなことしているんだろう、と後悔すべき状況なのか。
 ……どうなんだろう。
 分からない。けれど、遠坂さんには感謝とお礼をしないと。それだけは間違いない。うん。何時になってしまうか分からないけれど、とにかく絶対お礼をしないと――って、
 ぐぁおるるるるー
「……なんて腹の音だ」
 情けなさに、溜息を吐いた。
 
 

 
 
「――――美味しい」
「ふふ、ありがとう。空腹は最高の調味料ってね。はい、お世辞は良いからたくさん食べなさい」
 ガラスのテーブルに並ぶのは、色とりどりの中華料理だ。香りと見た目に更に食欲を刺激された俺はみっともないことにがっついて――そのあまりにもの美味しさに驚いて、感動して、あぁ、涙が出てきた。
「お、お世辞じゃないです。本当に美味しいです」
「そう? 嬉しい。腕によりをかけた甲斐があったわ」
 化粧を落として服を着替えた遠坂さんは、とても綺麗だった。見惚れるくらいに、綺麗だった。だから、そんな遠坂さんにこうやって微笑まれるとはすかしくって顔をあわせることが出来ない。
 誤魔化すそうに早口でごにょごにょと呟いて、俺は再び料理に向った。
 食べて、食べて、食べて……
「か、辛っ!」
 
 ――叫んで火を噴いた。
 
 辛い! 滅茶苦茶辛い! 何だこの麻婆豆腐……って、よく見たら血の池地獄みたいに真っ赤っ赤じゃないか!?
「あ、ごめんね。昔の知り合いが辛いのが好きで――はい、水」
「あひはほふほあいはふ……っ!」
 口を押さえながら、遠坂さんが差し出してくれたコップを受け取る。それを一気に飲み干して――けれど舌は痺れたままだった。汗が噴出してきて、体が熱い。……あぁ、涙が出てきた。
「何よ。何も泣く事ないじゃない。慌てて食べるからよ」
「――っ! ――っ!」
 唇を尖らせる遠坂さんは、もう一杯水を飲もうとした俺の手からひょいっとコップを取り上げてしまった。
 抗議の声をあげようとするが、上手く喋れない。
 ひーひーと変な音が洩れるだけ。
 仕方ないので遠坂さんからコップを取り返そうと手を伸ばすが、それもひょいっと避けられてしまう。
 ならばとウォーターポットに手を伸ばすが、やはりそれも取り上げられてしまう。

 ――そんなやりとりを何回繰り返しただろうか。
「あはっ、面白いわね、アンタ」
 気がつけば、何とか水を飲もうと右往左往している俺を見て遠坂さんはにやにやと笑っている。
 ……もしかして意地悪な人かもしれない。そう思わずにいられなかった。
「……」
 ジト目で睨んで無言の抗議をする。
「あたしの手料理よ、残したら酷いんだから。……全部食べるって約束する?」
 涙目の抗議が届いたのか、遠坂さんはウォーターポットとコップを手にそう言った。約束すれば水を返してくれる、ということらしい。
 迷うことなんて無い。
 勢い良くぶんぶんと頷いて了承する。
「そう、良い子ね。素直な男の子は大好きよ。はい、水」
 大好き――という言葉にいちいち反応してしまうのは、遠坂さんが流し目をしたから……じゃなくて、俺がまだまだ”男の子”だからだけどともかくそんなことは今は置いといて水! 水……っ!
 
 

 
 
 食事だけではなく、風呂まで馳走になってしまった。
 しかも入浴中に洗濯までしてもらって、汗や泥で酷いことになっていた制服は所々に擦り切れはあるものの、とても綺麗になった。……ここまでして貰うとどうやってこの恩を返せば良いのか、と悩んでしまう。
「――ふぅ。風呂上りはこれに限るわね。貴方も飲む?」
「いえ、み、未成年ですから……」
「んー? 何よ。つまんないこと言っちゃって。まぁいいけど」
 並んで腰掛けているソファー。遠坂さんも俺に続いて風呂に入った。一緒に入りましょうか? と俺を困らせた顔は、一瞬だけ悪魔に見えた。
 そして薫るシャンプーの良い匂いに、ビールを呷るたびに艶やかに蠢く白い咽喉。……落ち着かない。さっきから心臓がどきどきしっぱなしだ。まともに見ることが出来ない。
「あぁ、美味しい」
 げふ、と顔に似合わないげっぷをしてジョッキをテーブルに置く。
 俺は俯いて「そ、そうですか」と適当に相槌をうつ。
 ……それしにても。
 考える――何故俺は初対面の人に此処まで世話になってしまっているのだろうか――考えても分からないから、不思議に思う。
 以前の俺だったら、遠慮して断ってたはずだ。好意を無碍にするのは気が引けるけれど、それにも限度がある。こうやって困っている人に手を差し伸べるのは本来は自分自身がしなくてはいけないことだから。
 ――それくらい桜と慎二のことがショックだった……ってことか。
 我ながら情けないとは思う。家に帰りたくない。このままずっと此処に居られたら……なんて、そんなふざけたことさえ考えてしまう。
 流石にそんなことを頼む勇気は無いけれど――もし俺がそう頼んだら、遠坂さんは何て言うだろうか。
「――」
 横目でちらりと遠坂さんを見遣る。
 遠坂さんは酔いが回ってきたのか、頬を赤くして瞳をとろんと潤ませて。何をするでもなく、ただ気持ち良さそうにソファーに深く腰掛けて寛いでいる。
 シンプルな部屋着から覗く白くて滑らかな手足は、風呂上りと酔いもあってほんのりと薄い桃色に染まっていて――思わず、見惚れてしまった。
「――っ」
 息を飲む。
 まるで芸術作品……優美な彫刻みたいだと、そんなことを思った。やましい気持ちが湧いてこないのは、そういう理由だろう。今まで見たどんな女性よりも、遠坂さんは綺麗だった。
「ん――? どうかした?」
 俺の視線に気がついたのか、遠坂さんが怪訝そうに首を傾げる。さらりと流れる黒髪。そんな仕草にさえ、どきりとしてしまう。
「い、いえ! 何でもないです……っ!」
 ぶんぶんと手を振って誤魔化す。まさか「ずっと此処に居たいって言ったら貴方がどう応えるか気になって、貴方の様子を窺って……そのまま貴方に見惚れてしまいました」なんて言えない。言えるわけが無い。
「ふーん……つまんないの」
 遠坂さんは俺の答えが気に入らなかったのか、そう言って髪の毛をかきあげた。あからさまに不機嫌そうな表情。……もしかして悪酔いする人なんじゃないだろうか。
「あ、い、いえっ! 実はちょっと聞きたいことが……!」
 もしそうだとしたらマズイ。とてもマズイ。
 悪酔いする人の恐さは藤ねえで嫌というほど知っている。
 だから俺は――機嫌を損ねたら今すぐに追い出されるんじゃないかと不安になって、ついそんなことを口走った。
「何よ。そうならそうと最初から言いなさいよ。……で、何? 聞きたいことって」
 にこにこと笑ってこちらに体ごと向き直る遠坂さん。
 良かった。機嫌を損ねずにすんだ……けれど、
「え、えぇと……」
 ――自分で自分の首を絞めた、とはこのことではないだろうか。
 何の考えもなしに言ったものだから、とっさに言葉が出てこない。
「……つまり、その」
 何か、何か無いか。
「何よー、早く言いなさいよ。言っとくけど歳とか体重とかは駄目だからね」
「ち、違います。もっと大事なことで――」
「……私にしたら両方とも凄く大事なことなんですけどね……ま、いいわ。振ったのはこっちだし。そんなことよりさっさと言いなさいよ、ほらほら」
 急かされる。急かされると焦ってしまって、余計に出てこない。
 何か、何か無いのか。考えろ、考えろ、俺。
 何でもいい。いや、何でもいいというワケじゃないけど、とにかく早く思いつけ! 俺の脳!
「と、遠坂さんは――」
「私は――?」 
 結婚してるんですかとか――って駄目だ。
 恋人は居るんですか――って駄目だって。
 好きな人は――って、何でこんなのばっかりなんだ!?
 もっと別のこと。もっと別のことで、大事な質問。あるだろ。あるはずだ。きっと――って、あ。
 
「――どうして俺なんかにこんなに優しくしてくれるんですか?」
 
 閃く。――果たして大事過ぎる質問はあった。
 どうしてこんなにも優しくしてくれるのか。
 それは数時間前に出会ったときからずっと気になってたこと。知りたかったこと。どうして今の今まで忘れていたんだろうと、自分でも不思議に思う。
「あぁ、それはね――」
 なんだ、そんなこと。という軽さで遠坂さんが口を開く。
 けれど俺にとっては軽いことじゃない。
 大事なことだ。重いことだ。とても。
 平日の真昼間の新都の裏通り。絶対的に場違いで、空腹で困っていた俺に、優しく手を差し伸ばしてくれた。見ず知らずの不審な学生を警察に突き出すこともなく、自分の家に招いて、持成してくれた。どうしてあんなところに居たのか――気になる筈なのに、理由も聞かず、ただ、優し過ぎるくらいに、優しく。
「それは――?」
 逸る気持ちを抑えきれず、続きを促す。
 知らず、拳を握り締めていた。顔を上げて遠坂さんの眼を見る。聞き逃してはいけない。
 本能的に悟る。その答えは、きっと正義の味方にも大切なこと。
 けれど。
 ――そんな俺の真摯な期待とは裏腹に。
 
「士郎君――貴方がね、私の初恋の人にそっくりだったからよ」
  
 遠坂さんは――まるで本当に俺がその初恋の人だとでも言うように――頬を上気させ、目を潤ませ、恥ずかしそうに、ねだる様に、熱っぽい声で、
 
「……だからね、お願い。恩返しだと思って、今夜だけで良いから、傍に居て」
 
 言って――ふわりと、優しく。しなだれかかるようにして、俺に抱きついてきた。
 
「――――あ」
 呆然と洩れる意味を成さない言葉。
 ――青天の霹靂。何の反応もできない。
 首に回される腕。首元に埋められる顔。かかる吐息に、擽る髪の毛。自分のものとは別の体温。柔らかかくて、暖かい。いや、熱い。急激に上昇する己の体温に、心臓の拍動回数。
 ――頭の中が真っ白になる。体どころか、思考回路すら働かせることが出来ない。今起きていることが現実であるのか現実でないのか。それさえも分からない。お風呂のときみたいにまたからかわれてるんだと、遠坂さんは酔っているだけなんだと囁く声が、とても遠い。
「――――」
 近くで聞こえる、くぐもった声。何と言ったのか。それは何を意味する言葉だったのか。俺は、それに何と答えたのか。全てが遠いところでの出来事で、何一つ分からない。
 ただ唯一分かることといえば、今、唇に何か柔らかくて暖かいものが触れている、ということだけ。
 
 ――その暖かいものが何かを認識できたとき目の前にあったのは、遠坂さんの顔で――近くで見るとやっぱりどことなく桜に似ているな、と。白熱する意識の中で、俺はそんなことを考えていた。