チャイムが鳴って少し経ってから、虎子ちゃんが教室内に入ってくる。 二時限目の授業は英語だ。 俺の得意な科目だが、英語の授業はあまり好きではない。英語の授業というか担当の教諭があまり好きではない。あまり好きではないというか、苦手だ。それはもう凄く苦手だ。 「きりーつ、れーい」 日直の号令に合わせて、挨拶をする。 「ちょっとー、言峰くん。教科書はちゃんと授業が始まる前に用意しときなさいよ」 全然気を付ける気も分かってる気もしない気だるそうな返事をすると、虎子ちゃんは腰に手を当てて「はぁ」と溜息を吐いた。 「はーい。今日は新しい単元に入ります。みんな、P44を開いてねー」 言いながらも、視線は俺の机の上だ。どうやら俺がちゃんと教科書を用意するかどうか見張ってるらしい。 「えーと、たしか……」 机の横にかけた通学鞄の中を漁る。 「いけね。忘れた」 無い。何処を探しても無い。見つからない。 「大河センセー。すいません。教科書忘れたみたいです」 手を挙げて、虎子ちゃんに素直に伝える。流石に虎子ちゃんと呼ぶわけにはいかないので呼び名は大河センセーだ。これもこれでどうかと思うが。 「ちょっと言峰くん。先生のことはちゃんと藤村先生って呼ばなくちゃダメなんだから。次に名前で呼んだら怒るわよ。それと、教科書を忘れたんなら授業が始まる前に借りてこないとダメじゃない」 俺の全然注意していない素振りの返事もどうかと思うが、教科書より自分の呼び名を先に注意する教諭というのもどうなんだ。おい。 「はぁ。仕方がないから今日は隣の人に見せてもらいなさい」 大河センセー。とは流石に言えなかった。何だかんだで怒るといったら怒る人だから。しかも恐い。だってリアルごくせんだもん。俺だってヤのつく人に睨まれるのはゴメンだ。 「さてと」 手を降ろし、椅子に座り直して隣の席を見遣る。 「――こほん」 右隣の席はいちなちゃんだ。そのいちなちゃんは俺と視線が合うと、ばっと視線を逸らし、教科書を片手に何だかワザとらしい咳をした。それから前を向いたまま横目でちらちらとコチラを窺ってくる。 「……」 頭の中でいちなちゃんと机をくっつけて一つの教科書を二人で覗き込む姿を想像する。 「よし」 決めた。いちなちゃんに見せてもらおう。 「ん?」 と。 後藤ちゃんはいちなちゃんに負けず劣らず可愛らしいフェイスと、遠坂が泣いて悔しがる女性らしい体――怪物”G”とちょっぴり不思議ちゃんな性格で穂群原の三本柱の一人として男子の人気を集め、弓道部では面倒見の良いエースとして、顧問の虎子ちゃん、先輩、はたまた後輩の男子どころか女子からも慕われている学園の人気者だ。 中学も同じ、学園でも弓道部で同じだったという事もあって知り合って久しい。趣味が同じ料理ということもあって、一緒に買い物行ったりとか、夏祭り行ったりとか、料理の教えあいっこしたりとか――俺が和食を、彼女が洋食――で私生活でも仲が良い。 少し話がずれた。 「どうしたの? 後藤ちゃん」 尋ねる。後藤ちゃんの意思は理解できてたが、直に本人に言って欲しかった。そっちの方が嬉しいからだ。それに、もしかたしたら俺の勘違いだった、てこともあるかもしれないし。 俺の問いを聞くと、後藤ちゃんはにっこりと微笑んで、ゆっくりと口を開いた。 「宜しければ拙者のをお見せするでござるよ。言峰殿」 思わず素っ頓狂な声をあげる。 「そうか。昨日のドラマは時代劇だったな」 直ぐに合点する。後藤ちゃんは前日見たドラマに影響されてころころ口調や仕草が変わったりすることがあるのだ。それも多々に。 「確か剣客商売だったよな。俺も池波正太郎が原作のヤツは結構好きなんだ。昨日もツタヤでたそがれ清兵衛借りてブックオフで蝉しぐれ買ってきたし……って、両方とも藤沢周平じゃねーか。馬鹿」 自分で言って自分で突っ込んでしまった。寒い。しかも普通に勘違いしてた。 「言峰殿はいつも面白いでござるね」 だが、後藤ちゃんはそんな俺を見てくすくすと笑う。 「……」 今度は頭の中で後藤ちゃんと机をくっつけて一つの教科書を二人で覗き込む姿を想像する。 よし。決めた。後藤ちゃんも見せてくれるって言ってくれてるし、後藤ちゃんに見せてもらうことにしよう。 「わりぃな。後藤ちゃん。ありがたく見せてもらうことにするよ」 言って、後藤ちゃんは椅子に座ったままががが、と床を摩るように移動する。そして俺の椅子と自分の椅子をぴったりくっつけて――って、 「ちょ、ご、後藤ちゃん。何か近くないか!?」 思わず声をあげる。だって肩と肩が触れ合うどころか密着してるぞ、おい。いや、嬉しいといえば嬉しいんだけど、流石に授業中にこれは不味くないかっつーか何が不味いのかよく分からないけど、大胆過ぎじゃねーかっつーか柔らかいっつーかいい匂いっつーか……あぁ、クソ。行き成りのことでちょっとテンパってるぞ、チクショウ。落ち着け、言峰士郎。処女じゃあるまいし。これくらいで動揺するな。ガンホー! ガンホー! 人生楽しめ! 「拙者はコレ位が丁度良いでござる」 そんな俺などお構い無しに、後藤ちゃんはすました顔でそう言うと、どっかと教科書を”俺”の机の上に置いた。 「ね? 見やすいでござろう?」 教科書をぺらぺらとめくって、後藤ちゃんは俺の顔を覗きこんで微笑んでみせた。 「そ、そうだな。うん。見やすいよ、あ、ありがとう」 言って、後藤ちゃんはえっへんと大きな胸を張った。 「はーい。じゃあこの単語の意味が分かる人ー?」 後藤ちゃんが挙手する。しかも右手を挙げるもんだから、その勢いで乳が――って、あぁぁぁ……ダメだぁ。体から力が抜けていくったら抜けていく。
結局、授業が終わるまで俺はひたすら俯いていた。 「……? 言峰殿? 気分が悪いでござるか?」 力なく後藤ちゃんに答えて、教室を出る。
「あ、後藤ちゃん。おはよう。これ、昨日のお礼ね」 登校してきていの一番。教室の入り口の前で、ばったりと後藤ちゃんに出くわした。 「昼飯の時にでも食べてくれ」 大江戸屋のドラ焼きは後藤ちゃんの長年の好物だ。 「ピカチューッ!」 ――とんでもないクソを垂れた。 「ピッカァ、ピッカァ!」 そしてドラ焼きを手に嬉しそうにぴょんぴょんと跳ね回る。制服の下でフリーダムにゆさゆさと揺れ動く怪物くん――じゃなくて、マジか。おいおいおい! ピカチューって! ドラマですらねぇぞ! 「後藤ちゃん……? 何だよ、そのピカチューってのは……。いや、昨日の夕方やってたのは知ってるんだけど、その、幾らなんでもこの歳になって――」 満面の笑顔を浮かべる後藤ちゃん。 「後藤ちゃん」 後藤ちゃんの手を取って、歩き出す。こんなときになってもピカチューを貫きとおす後藤ちゃんは凄いというか何と言うか呆れるというか。いや、可愛いっちゃ可愛いんだけど。でも普通の人から見たら頭イタイ娘にしか見えないんだろうなぁ、ソコが悲しいぞ。ったく。 「ピカチュー! 君に決めたっ!」 ムーヴクイック!
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