昼休み。太陽は天頂。
 見上げれば、どこまでも青い空が広がっている。
 気持ち良さそうに泳いでいく白いふわふわした雲たちにならって、俺と慎の字は屋上でタバコを吹かしていた。俺はマルキン、慎の字はパーラメント。微妙に親父臭いな、おい。

「なぁ、五時限目の授業なんだったっけ?」
 
 肺に吸い込んだ煙をぷかーっと吐き出して、並んでフェンスにもたれている慎の字に聞く。
 慎の字は器用にドーナッツ型の煙を吐き出すと、暫く考え込んでから口を開いた。

「えーと、ちょっと待てよ。確か……藤村の英語じゃなかったかな、ていうかそれくらい僕に聞かないで自分で調べろよ。ていうか覚えてろよ、時間割くらい」
「げ。虎子ちゃんかよ。アイツ、何かしらねーけどやたら俺を当てやがるんだよなぁ、英語得意だから良いけどさ、何なんだよ、あれ」
「さぁね。僕が知るわけないだろ、そんなこと」

 慎の字はそういうと、パーラメントを指で叩いて灰を落とした。コラ。せっかく俺が携帯灰皿持ってきてんだから使えっての。

「何だよ。冷てーなー。俺、虎子ちゃんに何か恨まれるようなことしたか? してないだろ」
「だから僕は知らないって。……っていうかさ、大方あれじゃないの? またタイガーとか藤村の前で言ったとか、そんなところだろ、きっと」
「言ってないぞ。前それで泣かれて大変だっただろーが。それから一度も虎子ちゃんの前でタイガーって言ってないって。絶対」

 確かアレは俺が二年生に上がったときのことだった。
 俺が所属していた弓道部……今は辞めてるけど、の顧問は虎子ちゃん――冬木の猛虎藤村大河教諭その人だったのだ。藤村大河。女にしては珍しいその名前で、勿論あだ名はタイガー以外ありえない。
 というわけで俺と慎の字とその他何人かの馬鹿たちが、弓道場に虎子ちゃんが入って来たときにいっせいにタイガーコールを開始したのだ。言い訳みたいに聞こえるけど、無論、悪意があったわけじゃない。ただちょっとしたお茶目というか、軽い悪戯みたいなものだったけれど……そう、俺だ。俺がタイガー、って言った時、虎子ちゃんは何と泣き出してしまったのだ。
 あんなに焦ったのは生まれて初めてだった。
 まさか泣くなんて思ってもいなかった。怒られるとは思っていたので叱られる準備はしていたが、大の大人の女の人に泣かれるなんて生まれて初めての経験だったのだ。準備も心構えもあったもんじゃない。
 土下座やら何やらとにかく思いつく全てをやって泣き止んで、そいでもって許してももらったけれど、あれからと言うものの俺は二度とタイガーなんて言うことはしなくなったし、虎子ちゃんは何かとそのことを理由にして俺に教材を運ばせるのを手伝わせたり、学園帰りにドラ焼きを奢らせたりした。……そういやぁ授業でよく俺を当てるようになったのもその時くらいからだなぁ。

 今思えば虎子ちゃんの計画的犯行だったんじゃねーかと疑いたくなるが――だって、俺以外のヤツが言ったときはウガーとか言ってケロリとしてたし――やっちまったものはやっちまったもので仕方ないので今に至る。

「じゃあさ、分かった。あれだろ。言峰、君、藤村に手出したんだろ」
「脳味噌吸いだして頭蓋骨マンコしてやろうか、コラ?」
「お断りだね。君、何気にチンコでっかいし」
「ならケツ出せコラ。間桐ちゃんに聞いて知ってるんだぞ?」
「何をだよ。……って、おい! 何だよその変な笑みは!?」
「さぁーねー。何でしょうねー」
「く、クソ……! 慎のヤツまた要らないこと言峰に吹き込んだのか、あの馬鹿……!」
「いやいや、待て待て。間桐ちゃんは関係ない。俺の冗談だ。っつーか何だ? お前まさか本当にケツで何かあったのか?」
「あっ、あるわけ無いだろ……! 馬鹿! 何言ってるんだ!」

 慎の字は何故かやたら慌てながら叫んで、短くなったパーラメントを屋上の床にこすりつけた。おい、だから携帯灰皿使えって。そんなことしてるとまた柳洞ちゃんに……って、あ。

「お楽しみのところ申し訳ないが……はぁ、貴様たちも懲りないな。何度言えば校内は禁煙、いや、未成年の喫煙は法律で禁止されていると分かるのだ?」

 遅かった。

「「げ」」

 慎の字と二人してうんざりと呟く。

「何だその”げ”というのは。失敬な。それより……ほら、出さぬか。タバコは没収だ。勿論ライターも」

 眉を顰めてあからさまに不機嫌っつーか怒ってる顔でこちらに近づいてくるのは、我が穂群原学園の生徒会長柳洞いちなその人だった。
 実家が寺ということもあって柳洞ちゃんは厳格で規律に対して厳しい性格をしていて、中学のときも生徒会長だった。何か自分にミスがあるごとに「喝!」何て言ったり、弁当が精進料理のオンパレードだったり、口調がおかしかったり変なところも沢山あるが、同姓も惚れる端正な顔立ちと、チャームポイントの眼鏡、釣り目がちの綺麗な瞳と、まるで日本人形のような黒髪で校内に多数のファンを持ち、学園をより良くしようと日夜生徒会で頑張っている熱血ちゃんだ。
 まぁそんな柳洞ちゃんだから、俺たちみたいな馬鹿不良とは中学時代から全くウマが合わない。柳洞ちゃんに言わせれば俺たちは天敵で、特に俺は「妖狐」何て言われて目の仇にされている。正直、あんまりだと思う。俺たちがやっていることなんか、モノホンの悪……例えば親父とかに比べたら児戯に等しいってのに。

「何だよ。毎度のことだけど別に良いじゃねーか、タバコくらい。可愛いもんだろ。屋上だと他の生徒に迷惑も掛からないし」

 無駄だとは分かっているが、反論する。
 慎の字はこの後の展開が既に分かりきっているらしくて、二本目のパーラメントを口に加えて火をつけた。
 ……なのに、柳洞ちゃんは何も言わない。っつーか目に入ってない。毎度のことだが、メインの標的はあくまで俺で、慎の字はおまけなのだ。はじめは怒っていた慎の字だが、最近では気にしなくなっている。馴れってのは素晴らしい。

「黙りなさい。本気でそんな屁理屈が通ると思っているのか? ……思ってないだろうな。分かっているぞ、言峰士郎。貴様はいつもそうやって真剣な私を馬鹿にして楽しんでいる」

 柳洞ちゃんは俺から三メートルくらいのところに腕組みをして立ち、俺を真っ直ぐに睨みつけて動かない。タバコを出せ、と行ったのに近寄って来ない。分かっているのだ。俺たち、っつーか俺がタバコを差し出すワケが無いって。

「そんなこと無いって。俺が柳洞ちゃんを馬鹿にしたことなんか……ほら、中学のときのあれ一回だけだろ?」

 中学のときのあれというのは、柳洞ちゃんがあんまりにも五月蝿いんで、俺が思わず「何だよ、うっせーな。このペチャパイが」と言って柳洞ちゃんを烈火のごとく怒らせて、そのうえ泣かせてしまった小胸の乱のことだ。
 今思えば馬鹿らしいただのセクハラだったのだけど、それ以来柳洞ちゃんは俺のことを目の仇にし始め、”妖狐”と呼び出した曰くつきの事件である。
 勿論俺は滅茶苦茶謝ったし、姉貴伝授のアレもやった。けど柳洞ちゃんは未だに気にしているようで今のような有様だ。酷い話だぞ、まったく。

「あ、あの件の話は二度とするなといつも言ってるだろう! それに、その”柳洞ちゃん”というの、それが馬鹿にしてると言っているのだ……!」
「馬鹿になんかしてないぞ。親愛を込めて呼んでるんだ。それに、柳洞ちゃんは柳洞ちゃんなんだから良いじゃないか、別に。……けどどうしても嫌だって言うなら、そうだな、ヨシ。これからはいちなちゃんって――」
「――ば、ばば、馬鹿者! 大馬鹿者! 絶対にダメだ! もし私のことを名前で呼んでみろ、その時は末代まで祟って呪い殺してくれるからな……!」

 懐から数珠を取り出し、それをブンブンと振り回しながら柳洞ちゃんが叫ぶ。続いて「悪霊退散! 喝!」という気合とともに、俺に向ってお札を何枚も投げてきた。

「ここまでされると流石に落ち込むんですけれど……」

 おでこに張り付いたお札をひっぺがす。
 そんな俺を見て慎の字が笑い転げているので、後でニ三発ぶん殴っておくことにする。このおフェラ豚め。

「俺はさぁ、柳洞ちゃんと仲良くしたいだけなのによう、幾らなんでも酷いぞ、おい。悪霊は無いだろ。この異教徒」
「五月蝿い。貴様が悪いのだ。それに異教徒なのは互い様だろう。……ええい、予鈴が鳴りおった。ほら、ぐずぐずせず早く教室に行くぞ」

 言いながら、柳洞ちゃんが険しい顔で近づいてくる。
 ……あーあ、虎子ちゃんの英語はさぼろうと思ってたんだが、仕方ない。

「はいはい、分かりましたよ。慎の字、行こうぜ」
「ん。あぁ、やっと終わったの。君たちも本当に懲りないよね」
「うるせぇ。俺が悪いんじゃねぇ、柳洞ちゃんが悪いんだ」
「だから止めろと言うのに……と、おい、言峰。タバコの火がまだついているぞ」
「え? あぁ、わりぃ。気がつかなかった」

 柳洞ちゃんと色々やっている間すっかり忘れてた。火をつけたばかりだったマルキンは、その長さを三分の一ほどにして、まだ先から煙をぷかぷかと上げている。

「ほら見ろ。ちゃんと携帯灰皿だって用意してるんだ。ったく、これで何で文句が出るんだ。つくづくいちなちゃんは頭が固いんだよ」

 携帯灰皿を持ち上げながら、さらりと爆弾を投下してみる。
 柳洞ちゃんもとい”いちなちゃん”は、最初はきょとんとしていたが、直ぐに気がついたらしく、烈火の――は、般若の如く俺に突っかかってきた。

「こ、と、み、ねぇ! き、貴様というヤツは……っ!」
「お、おい。冗談だって! っつーか危ない! 火! まだ火ついてるって、これ!」

 いちなちゃんが凄い勢いで俺の襟首をがっしと掴む。
 その衝撃で携帯灰皿を落としてしまい、あろうことかまだ火のついたマルキンはぽーんと投げ出されて、……って、マジか! いちなちゃんの方に飛んで行きやがったぞ、クソッタレが!

「黙れ。何を言って……っ、え――?」」
「馬鹿! 避けろよ!」

 マルキンはいちなちゃんの顔めがけて飛んでいる。というのに、当のいちなちゃんは怒りの所為で反応が遅れて、避けれない。
 どうする……って、一つしかねーだろ、クソ! 
 手を伸ばす――熱いだろうなぁ。滅茶苦茶熱いだろうなぁ。でも、いちなちゃんに火傷さすワケに行くかってんだ、馬鹿野郎!

「つ――っ!」

 いちなちゃんの眼前すれすれで何とか、けれど離さぬようにがっちりとマルキンを掴みとる。
 ……あぁ、クソッタレ。大馬鹿野郎のオカマ野郎。案の定滅茶苦茶熱い。じゅ、っと嫌な音がして、僅かにだけ肉がこげる臭い。火は直ぐに消えたし、魔術の鍛錬なんかに比べたら屁みたいなもんだが、それでも熱いもんは熱いし痛いもんは痛かった。歯を食いしばって、痛みに耐える。

「掌を灰皿にするなんて、ヤクザ映画かよ、ったく……」

 言いながら、携帯灰皿を拾い上げて吸殻を押し込んだ。続けて、灰皿とマルキンの箱とライターをポケットに突っ込む。

「へぇ、やるじゃん」 
「うるせぇ、慎の字。二度とごめんだ、こんなこと」

 慎の字がにやにや笑いながら近づいてくる。クソ。人事だとおもいやがって。
 マルキンを掴んだ方の掌を見てみると、小さな火傷が出来ていた。じんじんと鈍く、時折刺すように痛むが、薬でもつけときゃ直ぐに直るだろうし、いちな……柳洞ちゃんも無事だったんでまぁヨシとしよう。

「本鈴が鳴った。これで完全に遅刻だね」
「はぁ。遅刻していったら虎子ちゃんうるせーだろうなぁ。……やっぱりさぼろうかなぁ。なぁ、柳洞ちゃん、俺、保健室に行くってことで五時限目休んでもいい――か、って、おい、どうかしたのか?」

 話を振るが、柳洞ちゃんは俺の問いかけに答えず、じっと俯いたまま動かない。

「おい、まさかどこか怪我したのか?」

 心配になって、顔を覗き込む。
 すると、柳洞ちゃんは俺と顔が見合う前にぷいっとそっぽを向いてしまった。

「? おーい? 柳洞ちゃん?」
「……馬鹿者」

 ぽつりと呟く。

「……柳洞ちゃんは止めろと言ってるだろう」
「え? あ、あぁ。わりぃ。っつーか、怪我は? 大丈夫か?」
「……ない。大丈夫だ」
「そうか。良かった。うん。それなら良いんだ。……じゃなくて、だったら何で俯いてたんだよ。その、いちなちゃんて呼んだこと怒ってるのか?」
「……うむ。怒ってる」
「な、何だよ。冗談、冗談だよ。軽いお茶目だって、あれ。もう言わないからさ、その、怒るなよ」
「……ダメだ。許さない」

 柳洞ちゃんはそう言ったあと、低い声で「本当に、貴様は大馬鹿者だ……」と呟いた。
 その後は黙りこくってしまって、俺が何を言っても返事をしてくれない。

「なぁ、柳洞ちゃん」
「……」
「柳洞さん」
「……」
「柳洞生徒会長」
「……」

 ……マジかよ。

「神は……死んだのか」

 ……最悪だ。これは間違いなく完全に嫌われた。
 がっくりと肩を落とす。
 本当に冗談のつもりだったんだけど、柳洞ちゃんのほうは冗談では済ませてくれなかった。顔をあわせてくれないうえに口をきいてくれ無いくらい怒ってる。……あぁ、クソ。柳洞ちゃんに完全に嫌われてしまったら、俺は何を楽しみに学園でこそこそタバコを吸えば良いんだ。っつーか席が隣同士なんだぞ。気まず過ぎる。教室にすりゃ居られないじゃないか。

「そう気を落すなよ。言峰、君にはお姉さんや遠坂や慎や後藤まで居るじゃないか」
「黙れこの野郎。子供五人居るから一人居なくなってもいいってのか。よくないだろ。俺にしたらよ、柳洞ちゃんはそれくらい大事な存在なんだよ」
「……時々さらりととんでもないことを言うよね、君。しかも無意識で言ってるんだからタチが悪いよ、まったく。……ま、元気だしなよ。僕の連れ何人か紹介してあげるからさ」

 慎の字が肩を叩いてくれるが、何の慰めにもならない。
 というか今の言いぐさだと俺が遊び人の優男みたいじゃねーか、コラ。しかもテメェ遠坂のケツを追っかけたりで女の趣味が悪いんだよ。

「……はぁ。とにかく、保健室にはマジで行くからちょっと遅れるって虎子ちゃんに言っといてくれ。慎の字と柳洞ちゃんはそれに付き添ってたって言えば大丈夫だろう」
「OK。じゃあね。……ほら、柳洞、ぼさっとしてないでさっさと行こうよ」
「……うむ。そうだな」

 けっ。何だよ。慎の字には返事するのかよ。
 ……あぁ、少しむかついてきたぞ。チクショウ。本当に冗談だったんだ、あれ。しかも悪意なんてこれっぽっちも無かった。あったのは親愛だ。この野郎。

「あーあ、痕が残ったらどうしようかなぁー。まぁ元はといえば俺が悪いんだけどさー」

 やさぐれ気分で大声で言ってやる。
 で、先に歩き出していた二人を蟹股でどっかどっかと追い越したら、何と柳洞ちゃんに「おい」と呼び止められた。

「……何だよ。生徒会長」

 振り向いて、不機嫌かつ気だるそうな感じで返事する。だって柳洞ちゃんの野郎まだ俯いたままだし。

「……この、馬鹿者」
「何だよなんだよ。またそれかよ。言われなくても俺が馬鹿ってことは俺が一番分かってるよ。……安心しろよ、もう柳洞ちゃんもいちなちゃんも二度と言わないからよ」

 言って、振り返って歩きだそうとする。
 すると再び呼び止められた。

「こら、待たぬか馬鹿者! 違う! 違うのだ! そのことはもうどうでも良いのだ」
「また馬鹿って言ったなこの野郎。っつーかどうでもいいならなんで許してくれないんだよ、ケチ」

 振り向かずに答える。
 するとすると、駆け寄ってきた柳洞ちゃんに肩を掴まれて、無理やりに振り向かされた。

「っ! こ、この分からず屋め! 人の話は最後まで聞け……!」
「って、ちょ! おい! 何しやが……る……?」

 驚いて、言葉尻がすぼむ。
 振り向いた先には、怒りに燃える柳洞ちゃんの姿が――無かった。
 柳洞ちゃんは、いつもの厳しい雰囲気や、不機嫌そうな顔だちを崩して、今にも泣き出しそうな不安定な雰囲気と顔をして俺を見つめている。

「お、おい!? どうしたんだよ。まさか本当は怪我してたのか!?」

 そんな柳洞ちゃんの姿に不安になって、大声で問いただす。
 が、柳洞ちゃんはふるふると首を横に振った。
 そして、俺の眼を真っ直ぐに見て――なんと頭を下げ、搾り出すように言葉を吐き出した。

「……違う。違うだろう。怪我をしたのは言峰の方だろう。……私の所為だ。すまぬ……本当に。許してくれ、この通りだ」
「い、いやっ。元はといえばタバコ吸ってた俺が悪いんだって! 柳洞ちゃんは悪くない。だ、だから止めろよ。頭上げてくれよ」

 まさかまさか俺の方が謝れるなんて思ってもみなかったので、焦る。焦りまくって、大事なことに気がつかなかった。

「……言ったな」
「へ――?」
「また、柳洞ちゃんと言ったな」

 そうだ。勢いで柳洞ちゃん、と言ってしまった。今しがたもう言わないって言ったのに。

「は、はぁ? 何だよ、それ。っつーか今どうでもいいって言ったじゃねーか。だ、だったら別に良いだろ。柳洞ちゃんでもいちなちゃんでもよ」
「ダメだ。許してやらない」
「な、何でだよ」
「だって、私が傷ついたのは事実だ。言っていい冗談と悪い冗談があるのはお前だって分かるだろう。――私だって、女だ」
「な、ちょ、おい、ひ、酷いぞ! それが仏教徒のやることかよ! タバコからも護ってやったじゃねーか、この悪魔!」
「なんとでも言うがいい。それに、タバコのことだって元はと言えば自分が悪い、と言っていたではないか」
「な――……」

 ――絶句する。
 柳洞ちゃんは焦る俺を見てにやにやと楽しそうに笑っている。先ほどの不安そうな雰囲気は綺麗に消えていた。
 しかも「女だ」って言ったときだけ可愛い顔しやがって。惚れそうになったぞ、こら。

「許して欲しかったら……そうだな。もう二度と学園でタバコを吸うな。授業をさぼるな。遅刻するな。部室で麻雀もダメだ。とにかく、風紀を乱すようなことは全部ダメだ」

 ……な、な、ななななななっ

「ふ、ふざけんな! 何で俺がそんなこと……!」
「……傷ついた」
「うっ」
「……私は、凄く傷ついたんだ」

 そんな戯言聞く耳もたぬわ! と、反論しようとするが、柳洞ちゃんの今消えたばかりだったはずの泣き出しそうな顔に封じられてしまった。
 しかも胸の前で手をいじいじさせて上目遣いででうるうると見つめてくる――あぁぁぁ、惚れそうだぁ、抱きしめてぇなぁ、チクショウ。俺のフニャマラめぇ。

「……わ、分かったよ。柳洞ちゃんの言うとおりにするよ」

 耐え切れなくなって、呟いてしまう。
 柳洞ちゃんは俺の言葉を聞くと――不安な雰囲気を綺麗に消して、「その言葉、忘れるなよ。言峰」とにぃっと笑った。
 あぁぁぁっ! もう!
 何となくこうなるんじゃないかと予想していなかったワケじゃないけどやっぱりハラ立つなぁ、クソ。可愛かったなぁ、チクショウ。こんな状況で上っ面だけに心揺さぶられる俺の小ささそれよりも何でお前はそんな可愛いんだっつーか遠坂並みの悪魔だ! テメェは!

「前言撤回だ! 舐めんな、コラ。そんな約束誰が守るかってんだちくしょう」
「ふん。何をほざいても無駄だぞ? 証拠があるからな」

 言って、柳洞ちゃんは懐から何とよくジャパネット何とかがCMしてる携帯型の小さいレコーダーを取り出した。
 にやにやと笑いながら再生ボタンを押す。
 すると、さきほどの俺の「……わ、分かったよ。柳洞ちゃんの言うとおりにするよ」という声があたりに虚しく響いた。いや、虚しく感じたのは俺だけかもしれんが。っつーか何時の間に!? ジェームズ・ボンドかテメェは!

「どうだ? 言峰?」
「ふ、Fuck! Unbelievable! 信じられねぇ、この女!」
「ははっ! 上手い事やられたね、言峰!」
「馬鹿者。お前もだ。衛宮」

 ……とんでもない。とんでもない女だ。何が妖狐だ。お前の方こそ女狐じゃねーか。怖ろしすぎる。見れば慎の字も笑い顔を引き攣らせてて震えている。そりゃそうだ。コイツは間違いなく遠坂並の悪魔だぞ……!
 糞。クソ。クソッタレ。このままじゃ気がすまねぇ!

「あぁ、クソ! 分かった。分かったよ! 守ってやるよ! でもな、守ってやる代わりにな、俺は柳洞ちゃんって呼ぶの止めないからな!」
「あぁ、良いとも」

 済ました顔で柳洞ちゃんはふふんと鼻で笑った。

「こ、このアマ……っ! だぁーっ! も、もう一つだ! 柳洞ちゃんも俺のことを貴様じゃなくてちゃんと言峰って……いや、やっぱり止めだ。俺はいちなちゃんて呼ぶからいちなちゃんは俺のことを士郎って呼べ! コラ!」
「あ、あぁ、良いとも。それくらい。……その代わり、先ほど言ったことは全部守ってもらうからな。――し、ろ、う?」 

 いちなちゃんは少しだけ怯んだが、直ぐに立て直して流し目しながら俺の名前を呼んで――あぁ、惚れそ……じゃなくて、やっぱりとんでもねー女だ! どこが風紀を守る生徒会長だ! おい! この売女!

「……こ、この野郎……!」

 ……糞。クソクソクソ。アカの手先のクソッタレのテキサスのオカマ牛の両生動物のクソの掻き集めのクソガキの臆病マラめ! このままじゃ気がすむか! 腐れマラ!

「……ようし、じゃあもう一つ。もう一つだけ聞け。この俺が真面目ちゃんになるんだ。もう一つくらい聞くのが生徒会長ってもんだろ。……まっ、心配しなくても大丈夫だ。本当にマジで最後の一つだから。……良いよな、い、ち、な、ちゃん?」
「なにやら邪悪な気配を感じるが……まぁ良いだろう。言ってみろ、士郎」

 何の抵抗も無く士郎って言いやがるし、いちなちゃんって呼んでも特に反応しやがらない。クソ面白くねーなぁ、チクショウ。
 ……だが、もう良い。別に名前ぐらいどうってことないんだ。実際。それよりこの最後の一つの方が大事だ。彼女の居ない若い男が可愛い女の子に求めることって言ったらコレしかない。筈だ。多分。

「デートだ」
「は――?」
「だから、デートだ。あさっての日曜、俺とデートしやがれこんちくしょう」
「――っ」

 いちなちゃんはアホの子みたいにポカーンとしている。
 ……なんだよ。言葉の意味が分からなかったのか? いや、デートくらい分かるよな。普通。それとも何だ? 嫌なのか、やっぱり。ダメなのか、やっぱり。いや、知らない。もう決めたんだ。

「おい、今良いって言ったんだからな。……そうだな、バイクで迎えに行くからお山の階段の麓で待ってろ。朝の九時な。時計を合わせろ。合言葉はフラッシュ、サンダーだ」

 あれだけの条件を飲むんだ。強制的に腕組ましたりしてやるからな。
 ……いや、それは流石になんか虚しいけど、とにかくデートだ。親父のハーレーこっそり借りてやる。バイトの給料が結構溜まってるから色々連れ回してやる。姉貴がよく行く高級ブティックとか良いな。いちなちゃんそういうの苦手そうだし。

「――――っ」

 何着て行くかなぁ、それよりいちなちゃんの私服の方が楽しみだなぁ、まさか着物とか着てきたりしないだろうなぁ、いくらなんでも。
 ……それはそれで見てみたい気もするけど、バイクだし。いや、もし着物だったらバスと電車でいけばいいか。

「――――っ」

 昼飯は何にしようかなぁ。いつも精進料理ばっかり喰ってるみたいだから一回ファーストフード何か喰わしてみようか? いや、この前姉貴に連れて行って貰ったジェーミーの日本支店とかの方が良いかもしれないな。高いけど滅茶苦茶美味いし。格好つけたいし。

「――――っ」

 ……っつーか、幾らなんでもポカーンとしすぎじゃないか、おい?
 慎の字は何時の間にか居なくなってるし、俺が考え込んでるかれこれ一分くらいポカーンとしっぱなしだぞ。

「おい、いちなちゃん? アイニージューヘルプユー。さっきから何ポカーンとしてるんだよ。言っとくけどな、今更――」

 声をかける。それでやっといちなちゃんは意識を取り戻した。
 すると、案の定、開口一番フザケタことを抜かしやがった。

「ばっ……! で、デートなど、だ、だだだ駄目だ駄目だ駄目だ! 絶対に駄目だ! 何を考えているんだ、お前は……!」
「――なーんて言っても駄目だからな。行ってくれなきゃさっきの約束もナシだ。基本的に盗聴テープは裁判でも証拠には使えないんだからな」

 顔を赤くして大慌てし始めたいちなちゃんをジト目で睨む。
 が、いちなちゃんは俺の言うことなど全く聞いていない。
 とにかくデートに行く事を拒否し続ける。……だから、そういうのは結構落ち込むし凹むっつーのに。

「馬鹿者! 大馬鹿者! 貴様はホンモノの馬鹿だ! ……正気か? 何故私が貴様とで、デートなどしなくてはならないんだ!?」
「いや、だから俺が不良止める代わりにだよ」
「そ、それが第一おかしいのだ! なぜ貴様が不良を止めるのと私とデートすることが関係あるのだ? 無いだろう? この罰当たり!」
「罰当たりって……何にだよ。っつーか何でデートくらいでそんなに大騒ぎしないといけないんだ。デートだぜ? デート。何も付き合ってくれとかヤらせてくれとか言ってるワケじゃないんだ。安いもんだろ? それに、いちなちゃんあんまり遊びに行ったりとかしないだろ? だからきっと楽しいぜ? 約束する」

 それと貴様じゃなくて士郎ね。士郎。
 と付け加えて、笑ってみせる。正直な話本当に楽しくする自信はあるんだ。姉貴やら遠坂やら慎の字やらに引っ張りまわされて、冬木市内なら遊ぶところも飯が美味いところに景色が綺麗なところとかも大方知ってるし。隣の三咲だって中々詳しいぞ。
 ……が、まぁ予想通りというか何というか。
 いちなちゃんは「付き合ってくれとか――」あたりの件から更に顔を赤くして騒ぎ始めた。ちょっと気の毒なくらい赤くなってるけど、大丈夫か?おいおい。

「嫌だ! いやいやいや嫌だったら、嫌だ! ……絶対に、絶対に嫌だ。駄目だ。いけない。デートなど、デートなど……」

 いちなちゃんは今にも怒り泣き出しそうな表情で叫び、呟く。
 ……ここまでくると流石に本気で落ち込むっつーか可哀そうになってきた。
 ここまで嫌なら別に――って、待て。ここまで嫌だってことはそれだけ俺が嫌われてるってことなのか……?
 ……それだと惨め過ぎるぞ、俺。
 心の中ではぁ、と大きな溜息を吐く。
 何だかんだ言って長い付き合いなのだから、そこまで嫌われてるということは無いとは思うが……とにかく、今回はいちなちゃん、士郎、と呼び合うだけでもヨシとしよう。理由を知らない人らから見たら本当に付き合ってるみたいになってしまうけど、まぁそこまで俺が気にする必要はないだろう。だって付き合ってないんだから。デートに行こう、って言い出したときそういう気持ちが微塵も無かったって言えば嘘になるけど、そういう半端な気持ちで誘うのは初めから間違ってたのかも……しれない。それに、ここまで嫌がってるんじゃどれだけ頑張っても面白くなるはずも楽しいはずもないだろうし。

「すまん。悪かった。デートはいいよ、だから落ち着け、な?」
「え――? あ、あぁ……すまぬ。こちらこそ取り乱して」

 いちなちゃんは大袈裟なアクションで胸を撫で下ろし、ほっと溜息を吐いた。よほど安心したと見えるが……はぁ。だーかーら、そういうのされると俺だって傷つくってのに。

「……なぁ、何でそこまで嫌がるんだよ? そんなに俺のことが嫌いなのか?」
「あ、当たり前だ。私は貴様のことが……」
「……」
「貴様のことが……、その……」
「……俺のことがなんだよ。情けは無用だ。ばっさり言えこんちくしょう」

 言葉とは裏腹に俺のチキンハートはふるふると震えている。
 聞きたくない。本当は聞きたくない。とっとと逃げ出したい。っつーか何でこんなこと聞いたんだ、俺の馬鹿。スキン頭のザーメン顔。

「き、き、き嫌い――」
「!?」

 搾り出すようにいちなちゃんが言う。小さい声だったけれど、ばっちり聞こえた。聞こえてしまった。
 オウシット……。
 あぁ、あぁ、なんてこった。面と向って言われるとやっぱり傷つくなぁ。心が痛い。心が痛いよ親――じゃなくて……あぁ、クソ。誰に言えば良いんだ畜生。なんで俺にはこういうときに頼れる知り合いが居ないんだ。

「……ははは」

 ……帰ろう。何か泣けてきた。
 どうせ虎子ちゃんの英語に出ても怒られるだけだし、六時限目は宗美ちゃんの授業だけど、もう、いいや。こういう雰囲気だから、いちなちゃんの言葉に嘘や冗談が無いというのが分かってしまうのが、辛すぎる。これ以上一緒に居るのが、悲しすぎる。

「はははは、はぁ……」 

 溜息をつきながら、くるりと振り返る。
 もう此処にタバコを吸いに来たりすることも無いだろう。約束は守る。それに、これからの季節寒くなるし。
 グッラック。我が愛しの屋上広場よ。そしてさようなら。俺の楽しい不良生活よ。これからは学園内だけだけれど真面目ちゃんになっていちなちゃんに迷惑かけずに生きていきます。はい。

「俺は好きだったんだけどなぁ……」

 蚊の啼くような声で誰にも聞こえないように呟いた。そうさ。俺はいちなちゃんが好きだ。所謂恋とか、そんなんじゃない。もっと別のもんだ。人間として、いちなちゃんみたいなヤツが、俺は好きなんだ。一生懸命なところとか。真っ直ぐなところとか。明確で堅固な意思で志を貫いているところか。
 背中を預けられる頼れるヤツ。決して自分が歩んできた道が間違いじゃなかったと言い張れるヤツ。馬鹿だ間抜けだと罵られようと、決して自分を曲げないヤツ。そういうヤツに俺は好感を覚える。だから姉貴や遠坂や慎の字だって勿論好きだ。
 言峰士郎という不確か人間が持っていない確かなモノを持っている人間に、俺は惹かれ求め焦がれる。

 だから、そんな好きなヤツに嫌われた悲しみは……あぁ、想像してたよりずっとずっと辛かった。

 ともすれば本当に泣き出しそうだった。
 重い足を引き摺って、何でこんなことになってしまったのだろうかと、忸怩しながら、背中に哀愁を背負い、歩き出そうとする。

 ――だがしかし。そんな俺の耳に、信じられない言葉が届いてきた。天啓かと思った。マジで。

「――嫌いでは、ない……。別に私は、きさ――し、士郎のことが嫌いというワケでは、ない」
「――ほっ、ほほほ本当か、おいおいおい!? マジで言ってんの、それ!?」
「きゃっ!? ちょ――い、いきなり何を……」
「本当の本当に俺のこと嫌いじゃないの!? なぁ!?」
「……う、うむ」

 自分でも信じられないくらいに早く振り向いて、俯いていたいちなちゃんの肩をがっしりと掴んで揺さぶった。
 いちなちゃんは驚いて、次に乱暴な俺に抗議の声をあげたが、首をぐわんぐわんさせながらも俺の勢いに負けたのかちゃんと肯定してくれた。

「良かったぁ……。いや、マジで。嫌われてたらどうしようかと思った」

 手を離し、今度は俺が胸を撫で下ろした。ほっと息をつく。
 いちなちゃんは首をぐわんぐわんさせられたことが気に食わなかったのか、ジト目で抗議の視線を送ってくる。が、そんなことでさえ嬉しいぞ、チクショウ。

「頭がくらくらするのだがな……」
「良いじゃん。それくらい。俺だってマジでいちなちゃんに嫌われたと思って落ち込んで泣く寸前だったんだからよ」
「どうして士郎が私に嫌われて泣くのだ。し……貴様だって、私のことが嫌いなのだろう? だったら――」
「――はぁ? ちょっと待て。誰が誰を嫌いだよ。何言ってんだ、いちなちゃん」
「ふん。白々しい……。言わなくても分かるだろう。自分のことなのだから。
 ……貴様は、私のことが、嫌いなのだろう?」

 いちなちゃんはそっぽを向いて、不機嫌な声で吐き捨てた。
 ……えーと、

「……馬鹿?」
「だっ、誰が馬鹿だ! 貴様のような大馬鹿者に馬鹿呼ばわりされる筋合いは無いぞ!」
「だって馬鹿だろ。……あのなぁ、嫌いなヤツのことをちゃんづけで呼ぶか? 嫌いなヤツのことをデートに誘うか? 呼ばないし、誘わないだろ。普通」
「ふん。それは貴様が私を馬鹿にして楽しむためだろう」

 そっぽを向いたまま不機嫌に続けるいちなちゃん。……うぉ、馬鹿だ。お馬鹿さんが居る。

「……本当はどこか怪我したんじゃないか? いちなちゃんよ」
「していない! なにがいちなちゃんだ。馬鹿にして……」 

 頭でもぶつけたのかな、と思って心配してやったらこの始末。
 ……あーっ! もう!
 頭の固い性格だとは知っていたし直に確認もしているけど、ここまでとは思わなかったぞ。俺の普段の行いや態度が悪いような気もするけど、知るか! 馬鹿! この微笑デブ!
 オルァ! という気合とともにいちなちゃんの頭を引っつかんで首を捻りこっちに向かせる。痛いやら何をするんだやら抗議と批判の叫びが上がるが、無視だ。聞く耳持たぬわ。

「離せ、離さぬか!」
「うるせぇ。嫌だ」
「……っ! ひ、人の話を聞いているのか! 痛いぞ! 早く離せ!」
「だからうるせぇっつーんだ。……良いか、はっきり言うぞ。俺は、言峰士郎は、柳洞いちなのことが嫌いじゃない。寧ろ自分みたいな馬鹿だけど真っ直ぐで一生懸命なヤツは、好きだ」
「す――っ!?」

 いちなちゃんは「好きだ」という言葉に反応して、また馬鹿にして――と、不機嫌が顔をしてみせた。
 が、俺の真摯な態度でそれが嘘じゃないと直ぐに分かったらしく、首まで赤くして、驚いた猫のように髪の毛をぶわっと逆立たせた。……うん。ちょっと面白い。じゃなくて、

「いや、所謂そういう意味の好きではなくて。なんつーか、人間的に好きっつーか尊敬できるっつーか。えーと、分かるよな?」
「あ……あぁ、うむ。そういうことか。そうだな、そうに違いない。分かる、分かるぞ」

 いちなちゃんは髪の毛と見開いていた目を元に戻して、こくこくと頷いた。そして小さく「そ、そうだ。そんな筈あるわけないのだ。落ち着け、いちな」と意味不明な言葉を呟く。

「……? そんな筈ってどういう意味だよ?」
「ばっ、馬鹿者! 言えるか、そんなこと!」
「何怒ってるんだよ……ま、別にいいけどさ」
「ふん。別に良いのなら聞くな、大馬鹿者」

 言って、俺の手を振り払い、いちなちゃんは遠坂がよくそうするように髪の毛をかきあげた。あからさまに不機嫌そうだ。
 ……本当に何なんだよ。いや、別にいいんだけどさ。ここまでムキになられるとやっぱり気になるじゃねーか。こら。

「いや、やっぱり気になる。教えやがれ、こら。どういう意味なんだよ」
「な、何故聞くのだ。今別にどうでもいいと言ったではないか」
「そりゃいちなちゃんの空耳アワーだろ。こっちだって嫌われてると思ってマジで凹んだり火傷したり色々してるんだ。手拭やるから早く教えろよ、ほれほれ」
「何をわけの分からぬことを……。何だその何とかアワーというのは」
「話を逸らすんじゃねーよ。ちゃんと答えやがれ。あと空耳アワーはタモリだよタモリ。タモリ倶楽部」
「な、何だそのタモリ何とかという――」
「――おい」
「い、いや、はは、はははは……」
「笑っても無駄だぞ。ごまかしの”ご”にすらなってない。観念して早く言えっての、ほら」

 ずずい、と身を乗り出す。
 いちなちゃんは「うっ」という呻きをもらして後じさるが、直ぐにフェンスに追い詰められる。こういうのは親父に鍛えられてるから得意中の得意だ。ただの女子学生が俺から逃げれると思ったらおおきな間違いだぞカウボーイ。もといカウガール。

「もう忘れ……」
「るワケないだろうが。健忘症じゃあるまいし。お? いつもテストで学年上位の癖に都合の悪い時だけ頭悪い振りか? え?」 
「ちょ、な、何だか恐いぞ。嫌だと言ってるんだ、別に言わなくても良いではないか」
「恐いのは心に疚しいところがあるからじゃねーのか? え? 柳洞さんよ」
「う、うぅ……」

 いちなちゃんは弱りきっている。何時もの剣幕も出ず、言葉に詰まる。華奢な体をさらに縮こまらせて、上目で許して光線を送ってくるが……も、もう騙されないっつーんだ! コラ!

「……」
「う、うぅ、う……」 

 気合を入れて睨んで、無言のプレッシャーを送る。いちなちゃんは直ぐに俺の視線に耐え切れなくなって、そっぽを向いてしまう。
 ……怪しいぞ。俺の追及を何とか躱そうとするところが怪しいぞ。かなり怪しいぞ。益々気になってきた。絶対聞き出してやる……っつーか躱し方が下手すぎるぞ。避けた方に弾飛んできてるって。いや、何か新鮮な姿で面白いけどさ。

「お前は完全に包囲されてるぞ、大人しく出てこーい」

 ほっぺたをぷにぷにと突っつく。
 いちなちゃんはされるがままで、固く結ばれた唇の端から呻きをもらすだけ。小さな肩はふるふると震えていて、横顔の頬は赤く、今にも泣き出しそうだ。
 こ、此処らへんで許してあげ……い、いや、逆に此処まで来たんだから此処はガツンと行かなきゃ男が廃るってもんだぞオルァ! ボーントゥキル! センパーファイ! しっかりしろ、言峰士郎! この女は遠坂並の悪魔だっていうことを忘れるな!

「ほら、早く言わないと五時限目の授業が――って、あ」

 終わっちまうぞ、と言おうとしたら本当にチャイムが鳴りやがった。
 で、俺がそれに気をとられ、次に気がついた瞬間。
 いちなちゃんはフェンス際がらするりと抜け出して、屋上の入り口兼出口の扉へと猛ダッシュをかけていた。
 は、早っ! 惚れ惚れするほど早い。慎の字より断然早いぞ――じゃなくて、逃げやがった! あのクソアマ!

「テメェ、コラ! まだ話の途中だぞ! 待てよ! おい、逃げるんじゃねぇ!」

 まさに脱兎の如くとはこのことだ。
 手を伸ばして叫ぶが、もう二人の間には二十メートルほどの距離が開いていた。今から追いかけても追いつけないし、校舎の中で続きが出来るような話でもない。
 チクショウ。完璧に逃げられた……!

「サノバ! クソッタレが! 覚えてろよ、チクショウ」

 自分のうかつさを呪いながら、吐き捨ててマルキンを一本取り出し口に咥えた。ったく、遠坂のうっかりがうつったんじゃないのか。うつるような事に心当たりは全くないけれど。
 そしてポケットからジッポを取り出し、火をつけようとしたところで、またもや気がついた。
 視線の向こう。屋上の出入り口の扉の前でいちなちゃんが立ち止まり、こちらを窺っている。

「っ! テメェ、そこを動くなよ……!」

 マルキンを捨て、走り出す。
 だが、いちなちゃんは俺がたどり着く前に、

「日曜日! 楽しみにしてるからな! 寝坊して遅刻するなよ、士郎!」

 手を振りながら大声で叫び、見惚れるくらいに可愛く微笑むと、すぅっと扉の向こうに消えていった。

「……えぇと」

 驚いて、立ち尽くす。
 ……何でさ?
 いや、嬉しいけど。本当にワケが分からないぞ。

「まぁ、ともかく」

 デートには行く気になってくれたみたいだし、さっきの言葉の意味はその時聞くことにしよう。っつーか、本当に何で最後の最後に行く気になってくれたんだろうか。流れ的にも完全に行かないって決めてたみたいだし、俺の方だって別に良いって言ったのに……本当の本当にワケが分からない。いや、嬉しいんだけどさ。凄く。

「――」

 今しがた捨てたばかりのマルキンを拾い上げて、咥え、火をつける。
 煙を吸い込んで、ふぅー、とゆっくり吐き出して、空を見上げた。

 太陽は天頂から日暮れへの階段に足を下ろしかけ、けれど空はずっとずっと青いまま。真白い雲たちが、気持ち良さそうにぷかぷかと泳いでいる。

 ……この晴天が日曜まで続いてくれたら良いな。 

 そんなことを考えながら、俺は腰を下ろし、フェンスにもたれかかった。教室にも保健室にも行く気にはなれなかった。もう少しここに居たい。
 だって、ニヤケ面のしまりの無い顔を誰にも見られたくなかったから。脳裏に蘇るのは、先ほどのいちなちゃんの笑顔。……ったく、相変わらずフニャマラだよなぁ、俺って。