ギルねけシリーズ第?話「ほほをつたう」から


◇◇◇


「どうして行くの?」

 半壊した教会の聖堂の床に、ぽつぽつと花が咲いた。溢れる涙を拭いもせずに、凛は目の前の背中に向かってもう一度呟いた。

「どうしても、行くの?」
「――ああ」

 背を向けたままで、ぶっきらぼうに士郎は答えた。感情の篭っていない平坦な声だった。士郎の返事を聞いて、凛は嗚咽の所為で声にならない声で「この、馬鹿……」とだけ呟いた。何時もの気丈な彼女とはまるで違う、柔で、今にも崩れてしまいそうな、弱弱しい声だ。
「言うなよ」知ってるさ。「俺が自分で一番分かってる」それくらい。

 ぽっかりと屋根に開いた大穴から、青白い月光が差し込んでいた。その月を仰ぐ。……煙草が吸いてぇなぁ、と士郎は思った。泣いている女ほど苦手なものは無い。今すぐにでもその涙を拭ってやりたいとは思う。けれど駄目だ。今コイツに優しくしたら、こちらの心まで折れてしまう。――義理の父と姉を殺すと決めた鉄の心が。  頑なに動かない背中を見て、凛は洟を大きく啜った。泣いてる場合じゃない。けれど涙は止まらない。なら、泣いたままでもいい。今はとにかく、この大馬鹿を止めないといけない。息を吸い込む。

「私のライダーも、貴方のランサーももう居ない。……敵う筈がない。分かってるでしょ……? 分かるでしょ? 死にに行くようなものだわ。――ねぇ、二人のお陰で助かった命なのよ。それを捨てに行くっていうの……っ!?」

 凛の叫び声は澄んだ空気によく響いた。綺麗な声だと士郎は思った。大好きな声だ。感情むき出しの、心からの叫び声だ。
 そうだな、遠坂。生きてるって素晴らしいよな。生きるって、幸せな事だよな。だから、そんなこと言うなよ。俺のチキンハートなんか、直ぐに折れちまうんだから。

「――戦争は直終わる。今回の聖杯は紛い物よ……? もう私達が戦う理由なんてないのよ?」

 さきほどの叫びとは違い、凛の声は優しかった。慈愛に満ちていた。がたがたと士郎の心を揺さぶる。
 士郎は凛との想い出を記憶の海から探した。初めて会ったのは、確か……そう、十年前だった。あの時からお前はいつも自信満々で、やることなすこと勉強も何でも一番で、喧嘩も強くて。まるで男みたいなヤツだ。そう言って、いつもお前を怒らせてたな。

「……そうかもな」
「そうよ。……ね? だから、このまま二人で倫敦へ行こう? 頼れる人が居るの。そこで、二人で暮らしましょう?」

 そして今は、お前を泣かしてる。初めて会ったとき、俺はこう思った。何て可愛い子なんだろう、って。まともに顔すら見れなかった。この子が笑ったら、まるで天使みたいに笑うんじゃないか、ってそんな事を思った。

「……」

 事実、笑ったお前はとんでもなく可愛いのに、俺はいつも、いつだって、お前を怒らせたり、悲しませたり、そんなのばっかりだ。

「倫敦、か。遠いな」
「そうでもないわよ、飛行機なら、直ぐなんだから」

 俺は、お前にいつも笑っていてほしいのに。

「ファーストクラスじゃないと嫌だぜ? 何とか症候群はゴメンだからな」

 知ってるのか? 遠坂凛? 俺は、お前と初めて会ったあの日から。

「馬鹿。ビジネスでも十分よ」

 凛は無理矢理笑おうとした。けれど駄目だった。口の周りが歪んだだけだった。
 士郎は扉の硝子越しにその顔を見た。……あぁ、もう、この馬鹿。チクショウ。ついに耐え切れなくなって、振り向いた。俺なんかより、お前の方がクソ馬鹿だ。

「そうか。それなら悪くないな……。お前と二人ってのも、悪くない」

 鉄が溶ける。折れたのではない。再び鍛え直し、冶金して、さらにさらに硬く堅く固く、強くなるために。

「でも、良いわ。金もパスポートもねぇし、それに……、俺の帰る場所は、此処だからな」

 潤んでぼやけた凛の瞳を見ながら、士郎は微笑んだ。久しぶりに、本当に笑ったような気がしたと思った。凛は士郎の言っていることが良く分からなくて、「でも、教会は……」と小首を傾げた。「違うよ」士郎は言葉を続けた。「そういう意味じゃない」

「遠坂――」

 士郎は凛の顔に自分の顔を近づけた。息と息とが当たる距離だ。思わずはっと息を呑んだ凛の肩に左手を置いて、ぽんぽん、と優しく叩いた。幼子をあやすようにゆっくりと。凛の身体から力が抜ける。それを待って、士郎はゆっくりと口を開く。出来るだけ優しい声で。凛を安心させるように。

「良いか? お前の方こそ、死ぬな」
 だってよ
「帰る場所が無くなっちまうからな」
 なんて言ったって――


  「俺の帰る場所は、お前なんだぜ。……凛?」


   ――士郎は凛を初めて名前で呼んだ。今の今までとって置いて良かった、と心の底から思った。そっと、一気に溢れ出した凛の涙を拭う。

「好きなんだ、お前のことが」

 暖かいな、とぼんやりとそんなことを思った。指から全身に温もりが伝うのを感じた。

「愛してるんだ、心から」

 涙ってあたたかいんだ。こんなにも、お前はあたたかいんだ。凛。もっと早く、その事が知りたかった。

「……卑怯者。似合うのよ、そういうの」

 泣いているのとは別に顔を赤くして、凛は士郎の手を跳ね除けてそっぽを向いた。士郎の顔が見れなかった。心臓が馬鹿みたいに高鳴って、上手く思考することが出来ない。確かに地面に着いている踵が、けれどずっと浮いているような感じ。現実感が無い。現実でないのなら、夢かもしれない。夢なら夢でも良い。凛は思う。夢なら、覚めないで。

「……ありがとう」
 
 何とか、それだけ口にする。段々と心が――落ち着いてこない。まったくコイツはキザで、我侭で、不良で、そのくせ勉強は出来て、魔術の腕はからっきしだけれど、料理が上手で、お人よしで、ろくでなしで、優しくて、強くて。いつもこうして、私を困らせる。

「怒るのか泣くのか照れるのかどれかにしろ」
「……馬鹿。ムリ言わないでよ。そんな器用な女じゃないわよ」

 凛は士郎に初めてあったその日を思い出した。あの言峰綺麗の養子になることを了承した変わり者を、興味津々で見にいった。けれどそこに居たのは、普通の子供だった。赤毛で、目のくりっとした、生意気そうな顔をした、普通の子供。それが凛の士郎に対する第一印象だった。

「知ってるよ。お前がどうしようもない不器用人間だって事くらい」

 けれどその印象は直ぐに間違いだったと思い知らされた。
 ――孤児院もここもあまり変わりないけどさ、けれどここにきてよかった。
 逢うやいなや、ソイツはそんなことを言い出した。どうして? と私は尋ねた。だってよ、行き成り友達が出来たし。しかも可愛い女の子だし――屈託なく笑いながら、士郎は宜しくな、といって手を差し出してきた。

「けどな、そういうところに惚れてんだ。だから直すな。一生不器用でいろこのやろう」

 私は自分の手を差し出せなかった。分からなかった。初対面で何てヤツ――そんな事ばかりを考えてた。好意に対する接し方が、分からなかったんだ。本当はあそこで私も手を差し出して、握手をしたかった。これから宜しくって。私にも、友達が居なかったから。父が居なくなってしまって、一人だった。一人でも大丈夫だなんて、ウソだった。嬉しかった。だから。

「なによそれ。――っていうか、さらりとトンでもないこと言わないでよ」

 何時も貴方は誰にでも優しくて、人懐っこくて、誰とでも直ぐに友達になってしまった。何か憎めないキャラなんだよな、と。まわりは貴方の事をそう言ってた。私もそう思う。なのに、私はいつも貴方に怒ったり困らせたり、そんなのばっかり。
 凛は顔を正面に向けた。士郎の顔を見る。瞳を見る。無謀な魔術行使の所為で、左の瞳は鉛色に変色してしまっていた。出来損ないのオッドアイ。吸い込まれそうだと凛は思って、直ぐに思い直した。

 今、吸い込まれそうなんじゃない。もう、私は、ずっと前から。

「……ホント、馬鹿よね。士郎って」
「だから俺が自分で一番分かってるって」
「ホントに……なんで私なんか。料理も出来ないし、胸もちっさいし、可愛くないし……、馬鹿。馬鹿よ。貴方は、世界で一番、大馬鹿」

 せっかく拭ってもらったのに、また涙が溢れ出してきた。詰まりそうになる声を絞り出しながら、凛は抱きついて、士郎の首筋に顔を埋めた。暖かい。貴方はこんなにもあたたかいんだ、士郎。

「そんなこと言われたら……余計に行かせたくなくなっちゃう、じゃない」

 ねぇ? 知ってるの、言峰士郎? 私って、本当はただの女の子なのよ?

[好き。好きよ。私も、貴方のことが好き。大好き。愛してるとか、そんな言葉じゃ足りないくらい、大切に、思ってる」
「そうか。両想いだったんだ。もっと早く言えば良かった」
「ごめんね」
「なんで謝るんだよ」
「だって、私みたいな女に好かれて、迷惑でしょう?」
「はぁ。男心のワカラン女だな。お前じゃなきゃ駄目だっつってんのに、迷惑もなにもあるか。そっちこそ一生離してやらないから覚悟してろ」
「うん。私も、離さない」
「――上等」

 士郎は腕をまわして、凛をそっと抱きしめた。壊れ物を扱うように、そっと。事実、この赤い悪魔さんは壊れ物なんだから。ありがとう、と、二人して言いあった。何に対して感謝したのかは、二人ともにも分からなかった。この世に生まれてきた奇蹟にかもしれないし、めぐり合った奇蹟にもかもしれない。分からない。何でもいい。
 ほんの数秒間、抱き合って、士郎は凛の身体をゆっくりと引き離す。もう一度凛の顔を見る。濡れた瞳と口が名残を惜しんでいた。あぁ、もう。だからそんな顔するなってのに。

「……キスくらいしなさいよ」

 上目で睨む。恥しくて死にそうだ。

「……大将出陣に赴く際、女人に未練残すまじってね。つーかそんな致死量な台詞ぽろっと吐くな。惚れ死ぬかと思ったぜ」
「いいからしなさいよ。こっちからするわよ」

 いい終わるや否や、士郎が口を開くより早く、凛は少しだけ背伸びをして、唇に、唇で触れた。本当に触れるだけだった。さっと身を離す。

「――えへへ。キスしちゃった」

 いたずらっぽく笑う。悪戯ではないけれど、本気だけれど。凛も久しぶりに、心の底から笑ったと思った。何よ、驚いた顔しちゃって。面白い顔。真っ赤よ、貴方。きっと私も。

「……卑怯者が。不意打ちだぞ、ちくしょう」
「卑怯者はお互いさまでしょ。……ごめんね。その、やり方がわからないから、コレくらいしか出来なくて……。でも、帰ってきたときはもっと頑張るから、私。だから、」

 絶対に勝って、そして生きて帰ってきてね――と笑って笑いながら、凛は泣いた。
 こんなに綺麗な物は生まれてこのかた初めて見た、と士郎は嘆息した。
 世界で一番大切な物。人。ずっと誤魔化してた。ずっと知ってたのに。やっと手に入りかかった、宝物。絶対に、大切にする。
 笑う。「安心しろって」死なないさ。「大丈夫」死ぬわけがない。「死にに行くんじゃない」死ねるわけがない。「家族の絆とさ、」お前が待ってるんだから。「俺が本当に生きてるかどうか」お前を愛しているんだから。「言峰士郎って人間が何者なのか」ただ、「確かめに行くだけさ」

」 「だから、ちょちょいと片付けて帰ってくる。必ず――」
「――うん。信じてる」
「……ありがとうな。信じてろ。信じる者は救われるってね、キリスト教でよかったぜ全く――じゃあ、またな」
 最期にそういって笑って、胸の前で十字を切って、士郎は教会を後にした。
 鉄は鍛えなおされ、鋼鉄となった。決して折れることの無い。ハガネという銘の、鉄に。